熊本県」タグアーカイブ

相 生 橋  菊池市大字亘 ( 熊本県 )

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相 生 橋  菊池市大字亘

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から県道23号を菊池川の中州「菊池ふれあい清流公園」入口まで進む。県道反対側に「相生橋」1連のみが公園化されて残る。
下流側にある文政8年相生橋本俣側起工記念碑は、どこにあるかわからなかった。

相生橋 あいおい
菊池市 <廃道>/菊地川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長9.8m(A),幅5m 嘉永5(1852) 市教委 /WEB(石橋) 拡幅のため石橋は真下からしか見られない→下流側中州に残骸として残る 石工:卯助・卯一・丈八(後の橋本勘五郎)/架橋当時は2連+1連+2連の計5連の連続石橋だったが流失し、中央中洲の1連のみ残る 4 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,226  相生橋
菊池市大字亘
菊池川
橋長:9.8m  橋幅:5.0m  径間:   拱矢:
架設:嘉永5年(1852)
国道387号線菊池市正観寺から県道23号線へ、800m南下右手に廃橋となっています。

オリジナルは5連アーチだったそうです。
両側はRC拡幅されています。
下流側にある記念碑
文政8年相生橋本俣側起工記念碑

龍 門 橋  菊池市龍門 ( 熊本県 )

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龍 門 橋  菊池市龍門

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。菊池市街から国道387号または県道133号を北進。龍門ダム近くの龍門小学校前へ下る。下流側にさらに進むと「寺小野橋」(写真2〜5)から下流側に「龍門橋」が見えるで、橋を渡り対岸通りの「龍門橋」説明板がある下り口まで行く。

№251  龍門橋
菊池市龍門(りゅうもん)
迫間川
橋長:22m  橋幅:4.3m
架設:明治22年(1889)
雪野橋より県道133号線をさらに1.4Km進み、龍門小学校の矢印があるところを左の道路に分岐、約600m下ると左下に龍門発電所があります。車を止め、徒歩。
錆付いた鉄製の階段を下りて写しました。この階段は危険度99%、そのうち朽ちて落ちるでしょう。
寺小野バス停付近の新橋から下流側に見えます。

虎 口 橋  菊池市龍門字虎口 ( 熊本県 )

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虎 口 橋  菊池市龍門字虎口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から県道133号を北進。龍門ダム近く虎口交差点から左折。下へ下って行くと迫間川に架かる。
橋手前のガードレールの間から、竹林斜面を下ると川底に降りられた。

虎口橋 こく
菊池市 一般道/迫間川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長25.3m,S15.9m(A),幅4.25m 嘉永3(1850) 市教委 /WEB(石橋) 高欄C化/雑草放置/アーチ部接近困難 石工:伊助・幸兵衛・仙左衛門 3 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№252  虎口橋
菊池市龍門字虎口(こく)
迫間川
橋長:25.3m  橋幅:4.25m
架設:嘉永3年(1850)
龍門橋から県道133号線に戻り、龍門ダム方面へ約1.5Km、虎口入口バス停より左下の道路へ分岐して進みます。そぐにこの橋です。
下に降りられそうになかったので、上から。 奥に架橋記念碑。

綿 打 橋  菊池市豊間 東迫間 ( 熊本県 )

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綿 打 橋  菊池市豊間 東迫間

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から県道133号を北進。西迫間交差点から左折。旧道に出たところで東側からの川に架かる。

綿打橋 わたうち
菊池市 一般道 石アーチ橋 (凝灰岩) 長9.8m,S7.7m(A),幅2.2m →4.2m 文政9(1826) 市教委
/WEB(石橋) 上流側を拡幅(昭和2)→Cで再拡幅 石工:栄八/迫間橋架設の試験台として施工されたとの由来も 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№249  綿打(わたうち)橋
菊池市豊間 東迫間
橋長:9.8m  橋幅:2.2m  径間:7.7m  拱矢:2.6m  環厚:43cm
架設:文政9年(1826)
昭和2年拡幅
迫間橋より旧道を北に100m位進んだところに架かっています。

上流部はコンクリートで拡幅してあります。現役の橋です。
右側が文政9年作、左側が昭和2年作。

迫 間 橋  菊池市西迫間 ( 熊本県 )

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迫 間 橋  菊池市西迫間

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。菊池市街から県道133号を北進。迫間交差点から左折して迫間川沿いの旧道に入ると、上流にすぐ見える

№248  迫間橋
菊池市西迫間(はざま)
迫間川
橋長:36.4m  橋幅:4m  高さ:10m
架設:文政2年(1829)
菊池市、菊池神社から県道133号線を約500m北進、左手の道に入ってすぐ見えます。

迫間橋
「眼下の迫間川渓谷を跨ぐこの石造眼鏡橋は、隈府町及び豊間方面と西迫間、小木村を結ぶ重要な橋で、長年の要望にこたえ文政12年(1829)完成した。碑名には惣庄屋石渕七郎右衛門、庄屋 打出市郎兵衛、世話方庄屋 平山八左衛門、総入目寸志(総工費出資)田尻藤七郎、石工 伊助と刻まれている。
長さ36.4m、幅4m、高さ10m、文政年間では熊本最大の石造眼鏡橋で、当時この技術を持つ者は八代郡種山村の三五郎一族だけとされていたが、この橋の石工は西迫間村の伊助であった。この橋のアーチは扁平で拱環(半円部の輪石)も種山式に比べ薄く独特のものであるが、激しい諸車の通行にもかかわらずよく百六十年の風雪に耐え、川面に写る景観は諸人の眼を楽しませている。
なお、碑文「迫間橋」は、隈府町の学者 城野静軒の筆である。」
菊池市教育委員会

築地井手  菊池市隈府 ( 熊本県 )

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築地井手  菊池市隈府

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。私は菊池市役所手前から築地井手の水路を辿り、九州電力発電所がある付近の菊池川取水堰(築地堰)まで遡った。
2枚目写真の「地域用水環境整備事業 築地井手」碑がある場所は、菊池グランドホテルすぐ先である。 

築地井手 ついじ
菊池市 菊池川 用水路 慶長年間(1596-1615) 市教委/WEB 水路に一旦蓋をしたが、水路び一部を修景再生(平成2-7) 加藤清正起源とされているのは800mほど。下流側は、より以前の城・空堀跡の再利用/菊池川水系最古の井手 3 C

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。

築地井手(ついじいで) 菊池市
所在地  菊池市隈府(わいふ)
利用案内 駐車場・トイレ   なし
解説

■広大な平野をうるおす井手
菊池川と迫間(はざま)川は隈府(わいふ)を南北にはさむように山間部から平野に流れ出ます。そして、菊池平野の北と南を西に向かい、菊池市七城町と山鹿市鹿本町の境界で合流します。この隈府と迫間川、菊池川に囲まれた広大な三角地帯が江戸時代、全国にその名をとどろかせた肥後米(注1)の主要な産地となった地帯です。
この三角地帯の水田には、もちろん迫間川や菊池川の水が使用されます。その方法は、供給地域の最も標高の高いところに井手(水路)を引き、そこから低いところにある各水田に水を供給するものです。
このため井手を流れる水は、より標高の高い川の上流に造られた取水口から取り入れることになりますが、川から離れた地域や川との高低差が大きい地域では、上流から延々と井手をつくることになります。しかも、水が緩やかに流れるために低い傾斜になるように工夫しなければならず、井手をつくるために高い技術を必要としました。
このような井手が、この広大な三角地帯にはいくつもつくられています。菊池川流域に3か所、迫間川流域にも3か所つくられ、もっとも古い時代に、またもっとも上流域につくられたのが築地井手です。
(注1) 江戸時代、大坂市場(堂島)に出荷された米は播州米、備州米と並び、市場の横綱格として「肥後米」とよばれ、その年の米相場を決定する基準米とされました。

■清正がつくった?築地井手
菊池川水系最古の井手といわれる築地井手は、加藤氏が肥後を統治していた慶長年間(1596〜1615年)に築かれたとされています。これは寛政6年(1794年)、隈府の儒学者・渋江公正(松石)が執筆した「菊池風土記」(注2)に記載されています。
「菊池風土記」には、井手によって水が供給される地域も書かれ、隈府の南側の村落名と共に神来(おとど)や野間口(のまぐち)など、隈府の西側で迫間川がすぐ近くを流れる地域まで含まれています。そして、その水田面積は228町(228ha)とされています。
築地井手は『菊池郡誌』に「隈府町の東端 字築地より菊池川を分水したる溝渠を築地井手と称す」と記されているように、築地に取水口を設け、隈府の南側を通るように井手がつくられています。現在の正観寺付近で二手に分かれ、南側を通る井手は、その後に掘られたもので新堀井手とよばれています。
(注2) 渋江松石が菊池地方の自然や文化の代表的な素材188か所を取り上げ紹介した著書。

■家事などにも使われた用水
新堀井手は、人びとが家の前で顔を洗い、米をとぎ、食器をすすいだりと家事で使ったり、昔はわらぶき屋根で火事が多く、防火用水としての役割もありました。また、学校帰りの子どもたちが井手に足を浸し、一時の涼を得るなど、身近に井手の流れを感じることができたそうです。
戦後、温泉の発見により、温泉の残り湯などの流入や都市化に伴い、一時、井手の水はよどんで、ひどいにおいがするようになりました。また、道路の整備拡張により、井手にコンクリートのふたがかぶせられました。このような時代の流れのなかで、築地井手はやがて忘れ去られていきました。
しかし、自然を取り込み、潤いのある街作りをしようという菊池市の取り組みのなかで、昔の井手を取り戻そうという動きが高まり、新堀井手の周辺の整備を行うと共に、下水道の整備を進め、美しい水路がよみがえりました。

参考文献
菊池市史編さん委員会 編 『菊池市史 下巻』 菊池市 1986年

高島船着場・跡  菊池市七城町高島 ( 熊本県 )

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高島船着場・跡  菊池市七城町高島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。菊池市街から県道53号により七城町の菊池川に架かる「高島橋」まで行く。七城温泉ドームの手前で、菊池川左岸が「菊池川河川公園」となっている。
史跡説明板が見当たらず、菊池市七城総合支所教育事務所に尋ねると、高島船着場・跡は、河川公園の対岸となる右岸にあった(最後の熊本県HP写真と比較。坂道が荷物の揚げ降ろしに利用された場所)。
高島橋は渡らず手前から陸側土手下の市道角へ行くと、史跡説明板はここにあると案内してもらった。土手は河川工事でだいぶん変わったよう。川筋には多くの船着場があったとの話である。  

高島船着場・跡 たかしま
菊池市 菊池川 船着場 江戸期 市教委/WEB 俵ころがしを想像再現 水量が多いため、大量の産品の積み出しに使われた 4 C

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化 > 県北 > 建造物 > による説明は、次のとおり。

高島船着場(たかしまふなつきば) 菊池市
所在地  菊池市七城町高島
利用案内 駐車場・トイレ 七城温泉ドームまたはリバーサイド七城利用
解説

玉名郡高瀬には菊池川の水運によって大量の年貢米が集まり、熊本藩最大の米の積出港となっていました。菊池川は物資輸送の動脈をなすもので、川筋には多くの船着場があり非常ににぎわいました。

■高島船着場
「菊池川全図」の高島橋(現在の高島橋から70mほど下流)付近にあり、石垣が築かれ、俵転の石畳が付設されていたといいます。村田や宮園、甲佐町から積み出された年貢米や物品も、しだいに高島に集まるようになりました。
寛政2年(1790年)、高島船問屋の横暴を訴えた隈府(わいふ)商人の訴状には、「米を売却するために、輸送を高島村の船問屋に依頼してきたが、近年不都合が多く、宮園村の船主尉平に荷物の総支配を頼んだ。しかし、宮園村から川懸りがよくないため、高島村の林右衛門にその役目を命じて欲しいとの申し出があった」とあるので、大量の産品の積み出しには、水量が多い高島船着場がよく使われるようになったと考えられます。   
明治21年(1888年)に隈府菊池銀行の支店、米販売会社や倉庫2棟が建設され、商人たちが行きかい、料亭や宿屋も並び、大いに高島船着場はにぎわったといいます。
米の積出しが衰退すると、木材積出し港の役割を果たすようになり、深葉山(阿蘇市)から材木が高島に運ばれてきたこと、2〜10隻の筏が一団となって菊池川を下ったこと、大浜(玉名市大浜)まで通常は1日で到着するが水量が少ないときなどは3〜4日かかったことなどが『菊池市史』に記されています。昭和10年代になると、菊池川水運を使った木材の運搬は、しだいにその座をトラックに奪われていきました。

参考文献
熊本県教育委員会 編・発行 『熊本県文化財調査報告 第91集』 1987年
菊池市史編さん委員会 編 『菊池市史 下巻』  菊池市 1986年
建設省九州地方局菊池川工事事務所 編・発行 『菊池川の今と昔』 1998年

周辺情報
七城町には、菊池十八外城に数えられる打越城・馬渡城・亀尾城・増永城・台城・神尾城跡があります。また七城温泉ドーム、道の駅「七城メロンドーム」などの施設があります。

鞠智城跡  山鹿市菊鹿町米原・菊池市 ( 熊本県 )

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鞠智城跡  山鹿市菊鹿町米原・菊池市

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。県道196号などで山鹿市菊鹿町の山鹿市立城北小学校や菊鹿温泉のの方へ向かうと、手前の竜徳交差点に「鞠智城跡」入口案内板がある。後ろの写真は、「深迫門」跡の遺構。

鞠 智 城

鞠智城(くくちじょう)は、日本の城(古代山城)の一つ。熊本県のサイトでは、「きくち」と振り仮名が振られている。熊本県山鹿市(旧鹿本郡菊鹿町)から菊池市にかけて所在する。菊池市隈府にあった菊池氏の居城「菊池城(菊池本城)」とは別の城である。熊本県土木部道路都市局都市計画課より鞠智城が有名になることを夢見てキャラクターのころう君がPR活動を行っている。

概要
文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場するが、築城年は記載がなく現在も確定されていない。しかし、7世紀後半、倭軍が朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れて、その来寇に備える軍事拠点と位置づけられて築城されたものであろう。古代史の資料『六国史』の記述や百済系瓦の出土例などから、鞠智城は百済亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。

大宰府管轄下にあった6城の1つで、大野城・基肄城の兵站基地として有事に備えた城と考えられている。城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ。

昭和34年(1959年)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。昭和42年(1967年)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物(韓国の二聖山城跡に類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在までに確認されている。

平成6年(1994年)より「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備が開始された。校倉造りの米倉や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元され公開されている。平成16年(2004年)に国の史跡に指定された。

関連文献
『続日本紀』文武天皇二年(698年)五月二十五日条
「大宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治(ぜんち)せしむ」
『三代実録』元慶三年(879年)三月十六日条「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸が自ら鳴る」

宮原の辻の堂地蔵道標・宮原の辻の堂道標  山鹿市菊鹿町宮原 ( 熊本県 )

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宮原の辻の堂地蔵道標・宮原の辻の堂道標  山鹿市菊鹿町宮原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。山鹿市菊鹿町宮原は、県道37号と県道18号の交差点でモービルサービス菊鹿がある。県道37号を直進するとすぐ右脇に道標があるが、新しい道標でサイトの道標ではない。
地元で聞くと、往時の相良往還「宮原の辻」とはまだ先の雑木林内。宮原交差点から県道37号を約300m進み、写真4の場所から右農道に入って、所在地図のとおり約20mほどの大木の所だった。
地蔵石室と石柱が並んで立っている。刻面は写真のとおり。これに間違いないだろう。

宮原の辻の堂地蔵道標 みやんはる
山鹿市 <相良往還> 石道標 (石室)高1.32m, (地蔵)高59㎝ 延享3(1746) 市教委 信仰の対象「右、わいふ」「左、山道」/地蔵を納める石室が、道標を兼ねている珍しい例 1 B

宮原の辻の堂道標 みやんはる
山鹿市 <相良往還> 石道標 高1.25m,幅29㎝ 天保8(1837) 市教委 保存状態良好 「東、茱萸尾(ぐみのお)/重石 弁財天道登弐拾五丁」「南、わいふ/西、山鹿志ん町道」「北、阿ひら/津江道」上、阿さこ/山道」 2 C

隈部氏館跡  山鹿市菊鹿町上永野 ( 熊本県 )

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隈部氏館跡  山鹿市菊鹿町上永野

熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化> 県北>史跡・遺跡> による説明は、次のとおり。県道18号山鹿市菊鹿町上永野か五郎丸あたりから要所に案内標識があり山手へ登って行ったが、車道はわかりにくく時間がかかった。八方ヶ岳の南西側山腹のようだ。

隈部館跡(くまべやかたあと) 山鹿市

所在地  山鹿市菊鹿町上永野
利用案内 駐車場 周辺に数台分  トイレ 周辺に2か所
解説

■隈部館について
菊鹿町上永野の東北東の山腹、標高340mほどにある隈部館(くまべやかた)跡は、永野城、あるいは猿返城(隈部館と後述の猿返城を含めて)といいました。戦国時代にこの地域を広く治めていた隈部氏の居城で、館跡の北東部の山上(標高682m)に位置する猿返城と一帯となって城域を構成していたと考えられますが、平時には城外の「館」に居住していたと考えられています(注1)。
(注1) 「肥後国誌」に、隈部親永は「平日ノ所居ハ城外ニアリ 館ト云」との記載がある。

隈部氏は菊池氏の有力家臣で、隈部武治のときに永野猿返城(隈部館)に移り、その後、次第に城域を拡大していいきました。ほかに築城時期については、隈部親家(?〜1550年)が築城したとも、親家の子・親永(?〜 1588年)が築城したともいわれています。

永禄2年(1559年)、隈部親永はこの永野猿返城を出陣し、菊池氏の旧臣・赤星氏を合勢川の戦いで破っています。 その後、隈部氏は天正8年(1580年)に本拠を隈府城(菊池市)に移し、18世紀後半に編纂された「肥後国誌」は、永野猿返城の「城塁を廃し、城代を置くことも無りしと見へたり」と記しています。

「肥後国誌」には、「大手枡形ノ跡」、「城ノ礎石」、「若殿(親安か)ノ部屋ノ跡」、「庭石泉水ノ跡」、「花園ノ跡」がみられると記載してあり、現在も中心部の平場に庭園をはじめとして、少なくとも3棟分の建物の礎石が残り、さらに平場の南側には堀切や「馬屋跡」と伝えられる張り出し区画もあり、登城口は桝型(ますがた)になっているなど、当時の様子をよく伝えています。

■隈部館の構造〜『菊鹿町史』より〜
伝馬屋跡(東西22〜26m、南北27m)の内壁に石垣、外壁に土塁が築かれています。土橋を通り、桝型遺構が現れます。主郭へは、この桝型遺構の開口部にある石段を登ります。主郭(南北60m、東西85m)には2棟の礎石建物(5間×7間、3間×3間)、その東側に庭園跡があり、池が造られていました。ほかに建物跡ともいわれる集石区画、2本の排水路遺構や雨落ち遺構、石塁や石垣などが残ります。また主郭の南には、敵の侵入を防ぐために長さ75m、主郭と堀底の比高差7.8m、堀幅12mの堀切があり、さらにその南に高さ2mの土塁が築かれていました。

参考文献
菊鹿町史編集委員会編 『菊鹿町史 本編』 菊鹿町 1996年
菊鹿町史編集委員会編 『菊鹿町史 資料編』 菊鹿町 1996年
肥後国衆一揆顕彰会議編 『知られざる中世の挽歌 肥後国衆一揆』肥後国衆一揆顕彰会議事務局1989年
森本一瑞編 『肥後国誌 上 復刻版』 青潮社 1972年

周辺情報
隈部館跡の麓にある青潭寺(せいたんじ)裏山に、親永をはじめ隈部一族の墓があります。