鞠智城跡  山鹿市菊鹿町米原・菊池市 ( 熊本県 )

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鞠智城跡  山鹿市菊鹿町米原・菊池市

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。県道196号などで山鹿市菊鹿町の山鹿市立城北小学校や菊鹿温泉のの方へ向かうと、手前の竜徳交差点に「鞠智城跡」入口案内板がある。後ろの写真は、「深迫門」跡の遺構。

鞠 智 城

鞠智城(くくちじょう)は、日本の城(古代山城)の一つ。熊本県のサイトでは、「きくち」と振り仮名が振られている。熊本県山鹿市(旧鹿本郡菊鹿町)から菊池市にかけて所在する。菊池市隈府にあった菊池氏の居城「菊池城(菊池本城)」とは別の城である。熊本県土木部道路都市局都市計画課より鞠智城が有名になることを夢見てキャラクターのころう君がPR活動を行っている。

概要
文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場するが、築城年は記載がなく現在も確定されていない。しかし、7世紀後半、倭軍が朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れて、その来寇に備える軍事拠点と位置づけられて築城されたものであろう。古代史の資料『六国史』の記述や百済系瓦の出土例などから、鞠智城は百済亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。

大宰府管轄下にあった6城の1つで、大野城・基肄城の兵站基地として有事に備えた城と考えられている。城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ。

昭和34年(1959年)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。昭和42年(1967年)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物(韓国の二聖山城跡に類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在までに確認されている。

平成6年(1994年)より「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備が開始された。校倉造りの米倉や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元され公開されている。平成16年(2004年)に国の史跡に指定された。

関連文献
『続日本紀』文武天皇二年(698年)五月二十五日条
「大宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治(ぜんち)せしむ」
『三代実録』元慶三年(879年)三月十六日条「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸が自ら鳴る」