月別アーカイブ: 2015年7月

長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか ( 長崎県 )

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長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。地番標石1〜4は、次記事に。
長崎の外国人居留地の境石や地番標石は、東山手町や南山手町を中心に全体で約90本近く残っている。
遺産リストでは、高さ50cm以上を取り上げているため、この分の標石のみ改めて紹介する。
現地写真は各2枚ずつ。標石の所在場所など詳細は、本ブログ書庫「長崎の外国人居留地跡標石」リストから、以前の各記事をそれぞれ参照。

長崎居留地の境石1 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高111㎝,幅30㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No6/WEB(みさき道人) 原位置?/本リストでは高さ50㎝以上のもののみを取り上げるが、それ以下のものを含めれば80基以上が現存し、大半が原位置もしくはその近くに残る 安政の五カ国条約により外国人に開放され、安政7以降、大浦の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。グラバー邸の完成が文久3(1863)、長崎大学附属図書館が作成した慶応3(1868)の長崎居留地の敷地割の地図では丘陵部の敷地割は完成しているので、現存する当該地区の居留地境石、地番標石は幕末〜明治初期のものと推測される/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石2 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高78㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No7/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 C

長崎居留地の境石3 ながさき
長崎市 小曽根町1-13 居留地の境界石 高92㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No27/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石4 ながさき
長崎市 グラバー園 居留地の境界石 高111㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No31/WEB(みさき道人) 移設・集約/同上 同上/(正面)「居留地境」 2 B

長崎居留地の境石5 ながさき
長崎市 東山手町1-41 居留地の境界石 高145㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No69/WEB(みさき道人) 煉瓦塀に埋め込み/同上 同上/(正面)「□留地境」 3 B

唐人屋敷の境石  長崎市館内町 ( 長崎県 )

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唐人屋敷の境石  長崎市館内町

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。館内町唐人屋敷跡の上部、天后堂後ろ側角に「福建地堺」の境石はある。
稲佐国際墓地の最上部(稲佐山登山道路側)には、「福建墳?地堺」と刻む境石(高52cm,29cm角)もある。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/422
天后堂資料は、布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の30頁から。

唐人屋敷の境石 とうじんやしき
長崎市 天后堂・裏 唐人屋敷の境界石 高100㎝,24㎝角 元文元(1736)以降 WEB(みさき道人)/長崎石物語 煉瓦塀に埋め込み/他に高さ50㎝以下のものが1基現存 唐人屋敷は、清の「遷界令」の撤廃(1684)を受けて、元禄2(1689)、長崎奉行所が設けた中国人居留地であるが、境界石の設置年代は不明(左記の年代は天后堂の建立年)→安政の開国により廃屋化したので、下記の外国人居留地境石よりは古いと推測される(刻字が浅く、居留地境石と同時期の建立とは考え難い)/(正面)「福建地堺」 3 B

「わかる!和華蘭」のわからん  長崎市政への提案と回答 ( 長崎県 )

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「わかる!和華蘭」のわからん  長崎市政への提案と回答

ご意見(要旨) 【「わかる!和華蘭」のわからん】  【2015年06月受信】

新長崎市史の普及版「わかる!和華蘭」が、本年3月発行されています。私の理解不足もありますが、内容でわからんのをお聞きします。
35頁 右下の掲載写真の説明は、「戸町氏の居城・戸屋城跡(上戸町)」とあります。一方、長崎学ハンドブックⅡ「長崎の史跡(南部編)」104頁では「鳥屋城跡」となっています。長崎名勝図絵・長崎日記・大村郷村記など古書で、確かにいろいろな表記がありますが、どれが正しいのかわかりません。「鳥屋城跡」を「戸屋城跡」と変えた理由を市民にわかりやすく説明してください。
80頁 長崎の主な街道図で、なぜ「御崎道」はこのようなルートになるのですか。長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」文久元年の紀行や、平凡社「長崎県の地名 日本歴史地理体系43」御崎道の解説、道塚の所在、文久・明治地図などからは、まったく考えられない史実に反した説と思います。
「新長崎市史」は、市民が後世へ伝えるなるべく正確なものにお願いします。市史発刊時すでに指摘し、監修の充実を市政へ提案していました。正誤表も必要と要望していました。それはどうなったのですか。

回 答 【統計課】  【2015年06月25日回答】

「新長崎市史」全4巻及び本年3月に発刊しました「わかる!和華蘭 新長崎市史普及版」については、一部、記載内容に誤りが見つかっており、訂正方法を検討しております。読者の皆さまならびに関係各位にご迷惑をお掛けしておりますことを深くお詫び申し上げます。
今回、ご指摘いただきました箇所につきましては、執筆者等と検証することとしておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。
一人でも多くのかたにご活用いただける市史等を目指してまいりますので、お気づきのところがございましたら、統計課へお知らせいただきますようお願いいたします。