南島の山鹿・玉名郡境石 山鹿市南島
サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。山鹿市街から国道3号により南下、南島から県道55号へ入ると、城ヶ花バス停手前角にこの郡境石がある。所在地図のとおり。
南島の山鹿・玉名郡境石 みなみじま
山鹿市 城ケ原バス停・北<豊前街道> 境界石(駒型) 高207㎝(移設前),幅33㎝,厚23㎝ 天保8(1837) 市教委/WEB 移設/下部埋設 (正面)「是ヨリ北 山鹿郡」/山鹿郡〜玉名郡 2 C
南島の山鹿・玉名郡境石 山鹿市南島
サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。山鹿市街から国道3号により南下、南島から県道55号へ入ると、城ヶ花バス停手前角にこの郡境石がある。所在地図のとおり。
南島の山鹿・玉名郡境石 みなみじま
山鹿市 城ケ原バス停・北<豊前街道> 境界石(駒型) 高207㎝(移設前),幅33㎝,厚23㎝ 天保8(1837) 市教委/WEB 移設/下部埋設 (正面)「是ヨリ北 山鹿郡」/山鹿郡〜玉名郡 2 C
大 坪 橋 山鹿市鍋田
サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。山鹿市街から国道443により西に行き、鍋田交差点から山鹿市立博物館の道へ入る。9枚目以降の写真は、博物館前のそのほかの展示物。
大坪橋 おおつぼ
山鹿市 <寺島井手/吉田川> 石アーチ橋(水路) (凝灰岩) 長31.0m,S8.9m(2A),幅2.0m 慶応元(1865)頃 WEB(石橋)/市教委 昭和58解体→山鹿市立博物館前に移設 石工:種山組/2径間アーチの水路橋は珍しい 2 B
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。
№1,354 大坪橋
山鹿市鍋田
橋長:31.0m 橋幅:2.0m 径間:8.9m 拱矢:4.2m
架設:慶応元年(1865)
石工:種山組
山鹿市立博物館前に移設されています。
大坪橋の由来
「この眼鏡橋は幕末の名惣庄屋福田春蔵が慶応元年頃(1865年頃)宗方・中村地区の住民が水利に乏しく、干害に苦しむのを憂え、寺島井手の用水を引くため関係地区民とともに苦心惨憺して、吉田川右岸のもと熊八字大坪八六−二番地から山鹿字七ツ石一九七六−二番地へ架橋されたものである。
この橋は矢部町にある通潤橋につぐ全国二位の用水橋であり、二連橋としては県下約170基のうち第11位にかぞえられ、すばらしい造形美をみせる石の芸術である。
築造以来昭和28年9月26日までの約100年間その恩恵は実に多大なものがあった。今般吉田川河川改修工事によってやむなく撤去せざるを得なくなったが、先人の偉業を偲ぶためぜひ保存したいとの強い要望があり、県の協力を得てここに復元移築したものである。」
昭和59年9月3日 山鹿市教育委員会
平 山 橋 山鹿市平山
サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。山鹿市街から県道195号により平山温泉へ向かう。平山温泉元湯前に架かっていたが現橋ができ、案内図のとおり平山阿蘇神社近くの公園に移設されている。
平山橋 ひらやま
山鹿市 県道・和仁〜山鹿線 /内田川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長10m,S6.34m(A) 文久元(1861) WEB(石橋)/市教委 平成27移設(迫石部のみ) 石工:種山組 4 C
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。
№1,357 平山橋
山鹿市平山
内田川
橋長:11.3m 橋幅:4.8m 径間:7.0m 拱矢:2.7m
架設:文久元年(1861) 大正3年改修
石工:種山組
湯山橋から県道195号線を100m西に架かっていました。
「肥後種山石工技術継承講座」により、ここに移設されました。
湯 山 橋 山鹿市大字平山
サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。山鹿市街から県道195号により平山温泉へ向かう。平山牧から平山温泉前までの途中、左手にある。
湯山橋 ゆやま
山鹿市 一般道/内田川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長8.0m,S5.4m(A),幅2.7m 文久元(1861) 市有形 WEB(石橋) 昭和50 上部C化・拡幅 施主:惣庄屋・福田春蔵 3 C
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。
№1,356 湯山橋
山鹿市大字平山
橋長:8.0m 橋幅:2.7m 径間:5.4m 拱矢:2.7m
八幡宮から県道195号線を3.6Km北上。すやま温泉へ左折したところに架かっています。
湯山橋 市指定文化財
「平山から和水町神尾へ向かう旧道の一部で、内野川に架かっています。石工は鍋田の猿渡某で、年代は不明です。近年の河川改修工事の時に、橋の撤去が検討されましたが、地元の熱意と熊本県の協力により、そのまま保存されました。」
山鹿市教育委員会 平成22年2月
城横穴群 山鹿市城
「山鹿市の指定文化財一覧」(157KB)(エクセル文書)による説明は、次のとおり。山鹿市の国道3号日輪寺入口交差点から左折、岩野川の橋を渡って北の鶴城中学校の方へ向かう途中に、熊本県史跡の標柱があった。人・盾などの浮き彫りは見てない。
12 県 史跡 城横穴群 城 個人 昭和34年12月8日 古墳時代後期の横穴墓群。台地東側の崖面に築造され、500mの間に46基がある。人・盾などの浮き彫りを施す。下流に付城横穴群、鍋田横穴がある。 48→46・県総合報告、326頁 山鹿 平小城
稲荷神社メガネ橋 山鹿市杉
サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。山鹿市街から国道3号を北上。日輪寺入口交差点から左折。すぐの左角の道を水路沿いに行くと、杉稲荷神社がある。
稲荷神社メガネ橋 いなり
山鹿市 参道(人道) 石アーチ橋 (凝灰岩) 長3.3m,S1.8m(A),幅2.4m 安政4(1857) WEB(石橋) 保存状態良好 小規模アーチの割に、大きな装飾高欄 1 C
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。
№1,359 杉稲荷神社橋
山鹿市杉
寺島用水路
橋長:3.3m 橋幅:2.4m 径間:1.8m 拱矢:0.5m
架設:安政4年(1857)
山鹿市西上町、国道443号線と国道3号線の合流点から国道3号線を2.2Km北上。
日輪寺入口の交差点を左折、すぐを左折、200m左手杉稲荷神社前に架かっています。
小原の眼鏡橋 黒木町大淵 小原
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。私は山鹿市から国道3号と県道13号により福岡県八女市黒木との県境鹿牟田峠へ向かい、同県道を黒木大淵橋へ下っていた途中、小原で旧道に架かるこの石橋を見た。
№1,031 小原の眼鏡橋
黒木町大淵 小原
橋長:16.5m 橋幅:3.2m 径間:10.8m 拱矢:3.8m
架設:大正12年(1923)
黒木町支所前から国道442号線を南東へ7Km、県道13号線へ右折。1.2Km先右手に架かっています。
黒木町大淵の道標 八女市黒木町大淵
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。
黒木町大淵の道標 くろぎ、おおぶち
八女市 鹿牟田峠<矢部街道> 石道標 嘉永6(1853) 市有形民俗 WEB 原位置 (正面)「右 肥後/左 矢部、道」 1 C
サイト更新情報によると、「・黒木町大淵の道標: 新規追加 (2015.4.12)」とあり、最近登載されたものである。山鹿市から県道13号により県境「鹿牟田峠」へ行った。現在の峠には、昭和4年11月福岡県が設置した「福岡・熊本 縣界標」しか見当たらない。
地元で聞き込みをすると、福岡県側の峠やや手前の谷間旧道に「追分石」があると言う。ビニールハウス角のその場所を訪ねると、横倒しになった年代不詳の「右いわの道 左やま道」と刻む石柱があった。高さ90×横23×奥行20cm。昔、相撲の力石にされていたそうで、原位置から少し南へ動いている。
「右いわの道」とは、現在の山鹿市鹿北町中心部「(肥後)岩野」のことだろう。
サイトの道標は、刻面からこの「追分石」ではない。黒木町大渕橋まで下ると、大渕橋脇に新しい丸石の道標があった。大正年間(石裏面に年号あり)の設置で「右ひご 左やべ 道 日向神」と刻む。この場所は、過去2回の水害に遭った。サイトの道標は、この流失した先代の石とも考えられ「市有形民俗」とあったので、八女市文化財担当へ現地から電話問い合わせしたが、対象と場所がそのときはすぐにはわからなかったので、調査保留とした。
この項はうっかりしていたが、本ブログ次を参照。「笹又の道しるべ(西園橋三叉路) 八女市矢部村矢部」
https://misakimichi.com/archives/4522
資料としたHP「矢部村の歴史」矢部村の開発の項による説明に、「現在、西園橋の三又路に「右大ぶち左ひご道」と刻まれた石の道標が建っているが年代はわからない。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて、肥後方面や矢部・豊後に旅する人の利便を図っているが、笹又の道しるべも、あるいはその良作という人が建てたのかもしれない。」とあったのを思い出した。
今、長崎の自宅へ帰って考えると、これは私の場所間違いだったようである。 HP「矢部村の歴史」に記す笹又の道しるべに関連した「嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて」ていうことは、「牟田峠」ではなく、現在の「無田峠」であって、もちろん「鹿牟田峠」ではない。
地図を見ると県道13号小原から南東の谷間に黒木町大淵「無田集落」がある。谷を登りつめると「無田峠」が確かにあった。この道も昔の主な街道だったのか。HPには「道しるべ(黒木町牟田)」の現地写真が掲載されていた。 http://www.snk.or.jp/cda/yabemurasi/2rekisi/kaihatu.html
サイトも私も、「牟田峠」(無田峠)を「鹿牟田峠」と勘違いした調査をしたようだ。刻面も「右肥後道・左矢部」ではなく、「右山道・左肥後道」が正しく、これからすると、道標は現在の無田峠ではなく、集落を過ぎた山道登り口にあるのではないか。
八女市黒木地区の市文化財指定「道標3基」は、八女市HPに所在地「黒木町大淵無田・本田・土窪字栗林」と内容があり、「大淵無田」の写真道標に間違いないようである。所在地「本田」とすると、大渕橋脇の新しい大正年間の丸石道標となるが、昔の道標は水害で流失したと地元で聞くから所在不明で、これは近世以前の遺産リスト対象外となる。
幸い「大淵無田」の道標写真は、八女市教育委員会教育部文化課文化財係が1年ほど前に撮影した画像を所持しておられ、提供を受けた。これが最後の写真3枚である。
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり更新された。
黒木町大淵の道標(無田峠の道標) くろぎ、おおぶち 八女市 無田峠 石道標 嘉永6(1853) 市有形民俗 市教委 原位置 (正面)「左 肥後道」、(右面)「右 山道」 1 C
田中橋(化巖矼車橋) 鹿北町多久 田中
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。山鹿市から国道3号により鹿北町岩野に向かい、北への県道18号に入る。岩野川沿いの県道を約4km進むと、多久の現田中橋上流にこの石橋を見た。
№1,370 田中橋(化巖矼車橋)
鹿北町多久 田中(たんなか)
岩野川
橋長:16.7m 橋幅:4.13m 径間:12.7m 拱矢:5.05m 環厚:55cm 輪石:37列
架設:安政5年(1858)
石工:藤左衛門 ほか
上麻生橋から400m引き返し、分岐を市木方面へ北上。道なりに進むと県道18号線へ出ます。そこから県道18号線を2.1Km南下したところに架かっています。
田 中 橋
「この橋は、多久・椎持村の年貢を収めるのに大切な土橋でしたが、洪水によりたびたび流され往来に困っておりました。そこで、安政5年(1858)細川藩の許しをえてお金を出し合い農民の奉仕活動でやっと出来上がった鹿北町で一番古い眼鏡橋であります。
記念碑に「藤からむ巖と化せよ車橋」とあります。」 案内板より
高井川橋 山鹿市鹿北町岩野
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。旧鹿北町役場から国道3号を800m北上、左手に現橋の下流側に架かっている。
№1,015 高井川橋
山鹿市鹿北町岩野 高井川
市指定文化財
男岳川
橋長:19.6m 橋幅:5.6m 径間:14.83m 拱矢:5.6m 環厚:70cm 輪石:35列
架設:明治14年(1881)
石工:橋本勘五郎
旧鹿北町役場から国道3号線を800m北上、左手に現橋の下流側に架かっています。
高井川橋
「国道3号線の開通に伴い、高井川区と弁天区の間に流れる男岳川に架設された眼鏡橋である。
石工棟梁は皇居の二重橋を築造した日本一の名工「橋本丈八」。現在は国道の改修により鹿北町道に編入されている」 案内板より