長崎の巨樹・名木 (諌早市)」カテゴリーアーカイブ

川下のヘツカニガキ  諌早市飯盛町川下

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川下のヘツカニガキ  諌早市飯盛町川下

諌早市飯盛町川下にある。田結郵便局角から海岸通りに出、最奥の瀬渡し店から上に上がる。ここに案内標識がある。すぐ上から右手の道に入り、突き当りの広場の石垣上にある。現地説明板は次のとおり。

長崎県指定文化財 川下(かわしも)のヘツカニガキ
昭和五十五年八月二十二日指定
中国大陸南部、台湾や琉球から北上したアカネ科の南方系の落葉高木樹で、国内では九州・四国にのみ分布しています。九州でも佐賀県や福岡県には分布しておらず、九州西岸では、この付近が分布の北限です。
明治の初め、鹿児島県大隈半島の辺塚(へつか)で発見され、枝葉に苦味があることから「辺塚苦木」の名が付けられました。樹高十㍍、幹廻り二㍍余りで、北限にこのような貴重植物の巨樹が見られるのは極めて珍しいことから県の指定を受けました。
平成十八年三月  諌早市教育委員会

伊木力みかん(野川内の小蜜柑)  諌早市多良見町野川内

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伊木力みかん(野川内の小蜜柑)  諌早市多良見町野川内

諌早市多良見町野川内にある。長与から行くと松ノ頭トンネルを越え、重尾大橋からもう一方の谷を回り込む下りカーブのところの県道33号線すぐ左道脇の石垣上にある。樹高が低く目立たないから、説明板を注意して探す。現地説明板は次のとおり。

伊木力 野川内郷の小蜜柑

江戸時代の末期、天明年間(一七八〇〜八八年)、この地が大村藩領の頃、伊木力村、野川内の中道継右衛門、山川内の田中村右衛門、舟津の田中唯右衛門などが当時の大村藩主純鎮公から苗木を戴いて植付けたのが蜜柑栽培の始めとされている。また、隣村の北高来郡古賀村から苗木を取り寄せたとも言われる。
この小蜜柑は中道家の先祖である中道継右衛門が当時山を伐り開いて植えたものと推測される。推定樹齢はおよそ二百年である。
江戸時代末期頃までは蜜柑を栽培していた農家は大変少なかったが安政の開港によって海外貿易が拡大し、長崎の港が盛況になるにつれて蜜柑の需要が高まり、生産が拡大していった。
明治十八年頃には、西彼杵郡内で生産高、販売高とも伊木力村が第一位となり、価格も県下町村で随一だった。
明治三十五年西彼杵郡内で生産される温州蜜柑については「伊木力みかん」に統一することに決定し、名実共に県の生産の中心としての地位を獲得した。
平成十二年七月  諌早市教育委員会

群(むれ)のクロガネモチ  諌早市多良見町元釜

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群(むれ)のクロガネモチ  諌早市多良見町元釜

諌早市多良見町元釜の群(むれ)にある。JR大草駅先の先の谷バス停からJRガード下をくぐり、南方鎌倉山を目指し山腹のアスファルト道を約10分ほど上る。群公民館上の高台にある。現地説明板は次のとおり。

群(むれ)のクロガネモチ

このクロガネモチの大木は群の小字の境界の交叉路にあり、樹齢は三〇〇年以上と言われている。
群地区は江戸時代、鍋島藩諌早領と大村藩領との境界付近であったので、この木が往来の道標となっていた。毎年、赤い実を沢山つけ地区住民からは「イントリモチ」の愛称で親しまれている。
幹回り 443cm、根回り 676cm、樹高 約20m、モチノキ科クロガネモチとしては県下でも最大の樹と推定されている。
平成十六年四月 諌早市教育委員会