九州(薩南諸島)」カテゴリーアーカイブ

今井権現の石段  龍郷町安木屋場 ( 鹿児島県 )

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今井権現の石段  龍郷町安木屋場

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道58号の龍郷町役場前から県道81号に入り、龍郷湾沿いに今井崎の方へ進む。現在の安木屋場トンネルは通らず、手前「ソテツ自生地」案内板のある旧道により峠まで上がる。ここが今井崎灯台と今井大権現神社の入口である。
狭いバラス道を奥まで進むと、今井崎と今井権現の分岐があり、左を行けば駐車場広場がある今井権現の赤い鳥居のところに着く。

今井権現の石段 いまい
(大島)龍郷町(奄美大島) 今井権現 石階段(不連続) 153段 元禄5(1692) 町建造物 WEB 保存状態良好 元禄5に島に運び込んだ石段用153段、敷石用628個の石材を使用した石段 1 B

ブログ「大奄美史」紀行による記事は、次のとおり。 

2014-01-16  今井権現 (安木屋場)  龍郷町 平家伝説

近海の監視のために遠見番として笠利湾の安木屋場岬に配された今井権太夫を祀っているという今井権現に向かう。
南洲流謫跡を過ぎて旧道に入り道路案内の通りに尾根のような山道を行く。かなり狭いが話に聞いていたほどではなく、対向車さえなければほとんど問題ない。(対向車に出会う確率は相当低い)
赤い鳥居が見えてきた。鳥居の前に広場があり、駐車できるようになっている。

鳥居の右側に教育委員会の案内板がある。

町指定文化財(建造物)  今井権現の石段及び石碑
指定年月日  平成4年3月10日
所 在 地  安木屋場字大谷
◎石段
元禄5年申(1692)為寿上国(与人として上国)石の小座一基と石段用の石を持ち帰り、今井権現に寄進。(石段153段、石数628個、現存) 石質は河頭石、一部に山川石が用いられている。
◎石碑
享保11年丙年(1726)9月3日、當島代官職、今井六右衛門寄進。

元禄とか享保と言えば江戸期でも早い時期である。石段用の石628個を島の与人が持ち帰ったというからかなりの財力である。砂糖を積んだ帰りの船を利用したのだろうか。
ここからの東シナ海の景色もなかなかである。真っ赤に塗られた鳥居の向こうに文化財の石段が見える。この鳥居、色が少々どぎつい。
石を載せている土台の土が不規則に落ち込んでいてしかも段が結構高くて、しばらく登ると息が切れてくる。
153段の石段を登り切ったところに立派な社殿がある。正面に「今井大権現」の社額がかけられている。

境内には古い石碑がいくつか並んでいる。1つには「天保七申年九月吉日」、「海上安全」などの文字が読み取れる。
毎年旧暦9月9日には、ユタ(原始信仰な霊能力者)の祭りである「今井大権現祭」が行われるそうだ。
この神社が永く信仰の対象であったのは、平家武将を祀っているからというような単純なものではなく、地元の民間信仰との深い結びつきがあるようだ。

ところでこの今井権太夫は、伝説によると大島に落ち延びた平家一族の最期に関わっている。
今井権太夫に遠見の注進を頼まれた行盛の御曹司が、浦という集落の娘との恋に溺れてこれを戸口の行盛に伝えず、行盛は敵の侵攻があったものと勘違いして覚悟を決めた。今井はこれを聞いて責任をとって自決、御曹司も同様に自決する。前途に希望を失った行盛も自害、これを聞いた浦上の有盛も腹を掻き切った。
諸鈍の資盛はすでに他界しており、大島の平家一族は遂に滅亡したという。

西 郷 松  龍郷町久場 ( 鹿児島県 )

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西 郷 松  龍郷町久場

龍郷町HPによる説明は、次のとおり。国道58号の龍郷町役場前から県道41号に入り、龍郷湾を今井崎の方へ向かう。久場の阿丹崎湊のところに「西郷松」の案内板がある。
幹の部分が残っているとあるが、これもすでに伐採され、展示している幹も完全に撤去されていた。   

西郷松
明治維新の雄、 西郷隆盛が龍郷へ流刑になった折に、その船のとも綱を結んだといわれる松です。
歴史を見守ってきた幹回り約4メートルの老松は、病気や塩害、白アリによる被害によって、平成23年6月に「立ち枯れ」と診断されました。
現在は、枝が全て切り落とされ、幹の部分が残っています。

現地碑文は次のとおり。

町指定文化財記念物  西郷松
1859年正月この松の木にともづなを結びつけた薩摩藩の黒糖積船、福徳丸から巨大な人物が船員達に手伝われて上陸した。
この人が即ち菊地源吾と変名した西郷南洲であった。それ以来、村人達はこの松を西郷松とよぶようになった。

龍郷湾のカキ(平家漁法・跡)  龍郷町瀬留 ( 鹿児島県 )

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龍郷湾のカキ(平家漁法・跡)  龍郷町瀬留

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道58号の龍郷町役場前から県道41号に入り、龍郷湾を今井崎の方へ向かう。龍瀬小学校がある龍留バス停を過ぎ、しばらく行くと、右海岸側に「平家漁法跡」の案内板がある。長さ約100m、高さ約50cm。   

龍郷湾のカキ(平家漁法・跡) たつご
(大島)龍郷町(奄美大島) 瀬留 魚垣 江戸期? WEB(みさき道人) /WEB 形は残っているが、管理や補修は行われていない 奄美群島に伝わる平家落人伝説では、平行盛(12世紀)は壇ノ浦の戦い後に奄美まで落ち延びたとされる→その臣・今井権太夫と蒲生左衛門が思いついたとされるが、真偽のほどは不明 2 C

ブログ「大奄美史」紀行による記事は、次のとおり。

2014-01-18  平家漁法跡 (瀬留)  龍郷町 平家伝説
平家漁法跡は龍郷の「歴史とロマンの散歩道」の7番目の史跡になっている。石垣を積んで満潮時に中に入った魚を、干潮時に捕まえるという素朴な漁法である。
行盛神社境内の案内には、「行盛公は、地域の方々に農業(特に稲作の普及)と漁獲方法を教え」とあるが、これがその漁獲方法だろうか。ちょっと眉唾ものであるが、それくらい古くからある漁法ということなのだろう。

口碑によれば、行盛の臣今井権太夫と蒲生左衛門は遠見番として何事もなく日を過ごしたが、余りの徒然さに、干潟に石を畳んで垣を繞らし、満潮とともに上って来る魚をその中に閉じ込め、潮の引いた時に捕える方法を考え出して、毎日漁獲を楽しみにしていた。…
大島で魚を捕獲する石垣はこの時から始まったもので、これがその後広く行われて今日に至ったということである。 〜大奄美史より〜
加計呂麻島の木慈の海岸でも同じようなものを見たが、こちらは単に垣漁跡と呼ばれている。

浦の碇石  龍郷町浦 ( 鹿児島県 )

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浦の碇石  龍郷町浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道58号の龍郷町役場前、国道反対側に龍郷町中央公民館がある。中央公民館の建物は現在改修工事中で、「浦の碇石」は正門前公園に屋外展示されていた。

浦の碇石 うら
(大島)龍郷町(奄美大島) 中央公民館 碇石(アルコース) 長200㎝ 中世(12-15世紀) WEB 屋外展示 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ/アルコースは、花崗岩が風化・侵食作用を受け分解した後に二次堆積したもの 2 C

とおしめ・跡  龍郷町浦 ( 鹿児島県 )

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とおしめ・跡  龍郷町浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道58号の龍郷町役場前交差点あたりの所。役場前に「浦の橋立」説明板と、国道海岸側に「とおしめ」標柱と「とおしめの由来」銘板がある。ここから「とおしめ」の陸側の通し穴が覗ける。
国道から下るパイプ階段は、船着場用のよう。海側の通し穴までは、干潮時にしか岩場を渡れない。満潮時には、裏の海岸に回って突堤先端から確認できる。

とおしめ・跡
(大島)龍郷町(奄美大島) 素掘トンネル(排水路) 享保6(1721)頃着手 WEB(みさき道人) 非現役/陸側・海側とも素掘の状態で残るが、写真は海側 田畑佐文仁による干拓による新田開発(干拓堤防の長さは550m程度)の一環として造られた排水用の「通し穴」/現地解説板には「海水の出入りを調節するため」とあるが、水田に塩水は不要なので意味不明→干拓地の排水樋門の役割を担っていたと思われる(満潮時に締め切り、干潮時に悪水を排水) 2 C

国道海岸側の「とおしめの由来」碑文は、次のとおり。

とおしめの由来
奄美では通し穴を「とおしめ」とよぶ。古い民謡で「真浦のとおしめ」と歌ったのはこのトンネルのことである。およそ二百五十年前、島の開拓の祖田畑佐文仁翁はこの上手に新田をつくるため、堤防を築き海水の出入りを調整するとおしめを掘った。難工事だったが多くの人々の力を結集して貫かれた。小山の上には鎮護を祈って弁財天が祭られたという。
昭和四十四年十一月十五日

屋入の銅山跡  龍郷町屋入 ( 鹿児島県 )

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屋入の銅山跡  龍郷町屋入

ブログ「大奄美史」紀行による記事は、次のとおり。龍郷町役場から国道58号により屋入トンネルの登り口、屋入バス停から左の海岸沿いの車道に入る。少し行くと、右手に「銅山跡」の案内板がある。この道をしばらく登ると、小谷の木橋を渡った先に、「屋入の銅山跡」の坑口が残る。

2014-10-19  銅山坑道跡(屋入)  龍郷町

特攻基地跡より少し国道寄りに、「銅山跡」と書いた案内があり、山の方に向かって道が伸びている。途中何軒かの建物があり、観音像が建っていたりする。建物の途切れたところから坂道を登っていくと少し広くなったところがあり、ここまでは数か月前にも来たことがあるのだが、特攻基地跡と同様、藪ばかりで先に進めなかった。今回は整地されていて、川に沿って先に進み橋を渡る。

山肌に隠れるようにトンネルらしきものが口を開けている。近寄ると岩がむき出しになった坑道。奥まで続いていそうだが、どれくらい深いかよく分からない。左側にコンクリートのトンネルのようなものがあるのも気になるが、手前からかなり水が溜まっていて近寄っていけない。

ここは鉱山にしては人家からそう離れていない。最初の頃は、坑道から鉱石をかついでおろして少し下の方で精錬していたという。精錬にはサンゴを割った石灰石を銅鉱石と混ぜて、木炭で溶かしていた。火をおこすために5〜6人でふいごを踏んでいた。
戦争時には、坑道を利用して横に支線を掘って魚雷を2本入れていたという。 ※参考『龍郷町誌』

いつ頃まで銅鉱石を掘っていたのかなど、詳しい子ことはよく分からない。大島で他に銅山跡があるとは聞かないが、銅が算出したのはここだけだったのだろうか。

学丸の奇岩群  龍郷町赤尾木・手広 ( 鹿児島県 )

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学丸海岸の奇岩群  龍郷町赤尾木・手広

龍郷町教育委員会編「文化財が語るふるさとの歴史 —龍郷町の文化財ガイドブック—」昭和25年発行の77〜78頁による説明は、資料のとおり。学丸は赤尾木の小字名。琉球石灰岩が波に侵食されて、不思議な景観を生み出している。

龍郷町役場から国道58号を北東へ進む。屋入トンネルを出て、赤尾木まで下る途中に、「手広海岸⇒」の案内板があるので右折。すぐ次の広い町道に左折して無線塔が真横に見えるあたりまで進む。角の農道に入って海岸の方へ向かうと、行き止まりに史跡案内板があった。これから山道を下ると、学丸海岸の奇岩群のところに出る。マップ参照。手広海岸からは、砂浜を左に20分ほど歩いて行く。

奄美クレーター  龍郷町赤尾木 ( 鹿児島県 )

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奄美クレーター  龍郷町赤尾木

龍郷町HPによる説明は、次のとおり。龍郷町赤尾木から国道58号を北東へしばらく進むと、東屋広場の駐車場があり、ここが赤尾木湾の展望所か。「奄美クレーター」の説明板があった。

奄美クレーター
「昭和45年に鹿児島ラサール高校教諭らの調査結果として、赤尾木湾は隕石孔であるとの確信で、奄美クレータと命名された。」(龍郷町誌より)
赤尾木湾はこの丸い形状から、隕石が落ちて形成されたと言う説があります。
しかし、周囲の地質等から隕石孔を否定する説もあり、それによると、大昔は海で隔てられていた龍郷と笠利が、長い年月のうちに海流によって砂が運ばれて繋がったものだと言われています。
いずれにしろ、自然が造り出す不思議な風景に魅了されます。

前肥田のガジュマル並木  奄美市笠利町喜瀬 ( 鹿児島県 )

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前肥田のガジュマル並木  奄美市笠利町喜瀬

現地説明板は、次のとおり。奄美市の北東部、赤尾木から国道58号により進む。笠利町手花部手前の交差点から左折、崎原ビーチの方へ笠利湾沿いに向かうと、途中の前肥田公民館先に案内板がある。

ガジュマル並木
奄美一と言われるガジュマル並木は、今から100年程前に畑や家畜を守るための防風林として植樹したもので、奄美市一集落一ブランドでもある。奄美大島の海岸線はこのような風景が当たり前であったが、最近では大分少なくなり、この並木かが「奄美一」とまで称されるようになった。

手花部の潮垣(シュガキ、マシャンキリ)  奄美市笠利町手花部 ( 鹿児島県 )

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手花部の潮垣(シュガキ、マシャンキリ)  奄美市笠利町手花部

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美市の北東部、国道58号により笠利町赤木名へ向かう。この手前、笠利湾の奥に手花部海岸があり、同バス停のところに手花部子供会作成の説明板がある。

手花部の潮垣(シュガキ、マシャンキリ) てけぶ
奄美市(奄美大島) 笠利湾・奥 魚垣 半径約100m,高約60㎝ 江戸期 WEB(みさき道人)/笠利町歴史民俗資料館/現地解説板 平成7に手花部小学校の文化財少年団らにより補強 どこから伝わったかは不明 2 B

笠利町歴史民俗資料館編「郷土は博物館 —家族で訪ねる奄美・笠利町の文化財—」2003年発行の100頁による説明は、資料のとおり。