隈部氏館跡 山鹿市菊鹿町上永野
熊本県HPの 地域発 ふるさとの自然と文化> 県北>史跡・遺跡> による説明は、次のとおり。県道18号山鹿市菊鹿町上永野か五郎丸あたりから要所に案内標識があり山手へ登って行ったが、車道はわかりにくく時間がかかった。八方ヶ岳の南西側山腹のようだ。
隈部館跡(くまべやかたあと) 山鹿市
所在地 山鹿市菊鹿町上永野
利用案内 駐車場 周辺に数台分 トイレ 周辺に2か所
解説
■隈部館について
菊鹿町上永野の東北東の山腹、標高340mほどにある隈部館(くまべやかた)跡は、永野城、あるいは猿返城(隈部館と後述の猿返城を含めて)といいました。戦国時代にこの地域を広く治めていた隈部氏の居城で、館跡の北東部の山上(標高682m)に位置する猿返城と一帯となって城域を構成していたと考えられますが、平時には城外の「館」に居住していたと考えられています(注1)。
(注1) 「肥後国誌」に、隈部親永は「平日ノ所居ハ城外ニアリ 館ト云」との記載がある。
隈部氏は菊池氏の有力家臣で、隈部武治のときに永野猿返城(隈部館)に移り、その後、次第に城域を拡大していいきました。ほかに築城時期については、隈部親家(?〜1550年)が築城したとも、親家の子・親永(?〜 1588年)が築城したともいわれています。
永禄2年(1559年)、隈部親永はこの永野猿返城を出陣し、菊池氏の旧臣・赤星氏を合勢川の戦いで破っています。 その後、隈部氏は天正8年(1580年)に本拠を隈府城(菊池市)に移し、18世紀後半に編纂された「肥後国誌」は、永野猿返城の「城塁を廃し、城代を置くことも無りしと見へたり」と記しています。
「肥後国誌」には、「大手枡形ノ跡」、「城ノ礎石」、「若殿(親安か)ノ部屋ノ跡」、「庭石泉水ノ跡」、「花園ノ跡」がみられると記載してあり、現在も中心部の平場に庭園をはじめとして、少なくとも3棟分の建物の礎石が残り、さらに平場の南側には堀切や「馬屋跡」と伝えられる張り出し区画もあり、登城口は桝型(ますがた)になっているなど、当時の様子をよく伝えています。
■隈部館の構造〜『菊鹿町史』より〜
伝馬屋跡(東西22〜26m、南北27m)の内壁に石垣、外壁に土塁が築かれています。土橋を通り、桝型遺構が現れます。主郭へは、この桝型遺構の開口部にある石段を登ります。主郭(南北60m、東西85m)には2棟の礎石建物(5間×7間、3間×3間)、その東側に庭園跡があり、池が造られていました。ほかに建物跡ともいわれる集石区画、2本の排水路遺構や雨落ち遺構、石塁や石垣などが残ります。また主郭の南には、敵の侵入を防ぐために長さ75m、主郭と堀底の比高差7.8m、堀幅12mの堀切があり、さらにその南に高さ2mの土塁が築かれていました。
参考文献
菊鹿町史編集委員会編 『菊鹿町史 本編』 菊鹿町 1996年
菊鹿町史編集委員会編 『菊鹿町史 資料編』 菊鹿町 1996年
肥後国衆一揆顕彰会議編 『知られざる中世の挽歌 肥後国衆一揆』肥後国衆一揆顕彰会議事務局1989年
森本一瑞編 『肥後国誌 上 復刻版』 青潮社 1972年
周辺情報
隈部館跡の麓にある青潭寺(せいたんじ)裏山に、親永をはじめ隈部一族の墓があります。