九州(宮 崎 県)」カテゴリーアーカイブ

ふるさとの名木 クス並木  都城市姫城町市役所そば ( 宮崎県 )

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ふるさとの名木 クス並木  都城市姫城町市役所そば

HP「ぴこねっと日本ねっ島」名所旧跡 宮崎県 都城市による説明は、次のとおり。

ふるさとの名木 クス並木

このクス並木は、明治41年(1908)都城尋常小学校女子部の第1回の卒業生が記念植樹したものです。
14本の老木は今なお健在で市民に爽やかな季節感と夏の木陰を提供しています。明治末に植えられたクスの木が旺盛な姿を見せているのは類例も少ないそうです。貴重な文化財として保護されています。樹高20メートル、、胸高周囲4メートル30、根回り4メートル50。推定樹齢99年です。素晴らしい姿だと思います。
都城市教育委員会文化財課

外浦砲台・跡  日南市南郷町贄波 ( 宮崎県 )

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外浦砲台・跡  日南市南郷町贄波

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR日南線南郷駅前交差点から国道448号に入り、外浦港沿いに南下する。港口に贄波集落があり、贄波バス停から防波堤へ出るあたりが、外浦砲台・跡のようである。

昭和55年発行「南郷町郷土史」105頁の「外浦砲台の跡」記録と写真は、上のとおり。砲台跡の石垣は、今は長い海岸護岸の防波堤が造られ、はっきり確認できないが、バス停右の転回所隣の駐車場奥の石垣に延長としてそれらしきものは残っていた。

外浦砲台・跡 とのうら
日南市 南郷町贄波 台場(石塁) 元治元(1864) 市教委 バスの転回所に残る石垣か? 文政8(1825)に異国船打払令が出され、沿岸の警固を強化するため大砲4門を設置した 5 C

松田堤・跡  日南市南郷町中村乙 ( 宮崎県 )

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松田堤・跡  日南市南郷町中村乙

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR日南線南郷駅前先の交差点から県道438号に入る。約1kmほど行った県道がカーブするところに製茶店があり、手前竹藪角に「松田堤跡」の白い標柱が立つ。
北東にまっすぐな市道が伸び、この市道が天端を道路化した松田堤・跡で、潮屋権現の森の伍社神社が奥にある。

松田堤・跡 まつだ
日南市 南郷町中村乙 土堤防 長640m 慶安3(1650) 市教委 天端を道路化(アスファルト舗装) 地元の松田理右衛門の建議で、脇元村界・尾崎〜潮屋権現の森、潮屋権現〜天ノ越の岡麓の間に築いた埋立堤/松田堤の名は松田理右衛門に由来 2 B

山仮屋の水汲場  日南市北郷町北河内 ( 宮崎県 )

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山仮屋の水汲場  日南市北郷町北河内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。私は宮崎市清武町から県道27号により椿山峠を越して行った。山仮屋集落に入って少し先の県道沿いに「歴史の道 飫肥街道」山仮屋関所跡まで約10分程度の案内板がある。
山仮屋の水汲場は、山仮屋関所跡のイチイガシの古木近くにあるらしいが、標識からの山道が荒れて訪ねなかった。水汲場資料・画像の提供は、日向市教育委員会生涯学習課文化財係である。山仮屋関所跡は旧街道の上手沿いに農道があり、上から下られると聞いた。
後ろの写真は、私が集落内県道で見た生活用水。これらが上の水汲場から引いているのだろうか。

山仮屋の水汲場 やまがりや
日南市 (山仮屋)<飫肥街道> 湧水 江戸期? 生活用水として現役利用 1 C

山仮屋隧道  日南市北郷町北河内 ( 宮崎県 )

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山仮屋隧道  日南市北郷町北河内

現地説明板は、次のとおり。私は宮崎市清武町から県道27号により椿山峠を越して行った。山仮屋集落の少し手前の県道脇に案内板があるので、廃線となっている旧県道(トンネルは通行禁止)に入る。 

県指定有形文化財 (平成10年10月22日指定)  山仮屋隧道

山仮屋隧道は県内初の道路トンネルである。このトンネルは、宮崎飫肥間を結ぶ県道(現在の県道宮崎北郷線)の開設に伴い建設された。宮崎清武間の開通は明治20年頃で、明治23年には山仮屋への道路開削が始まった。宮崎山仮屋間の県道開通は明治25年である。
一方、飫肥山仮屋間も明治25年に一部を残してほぼ開通しており、明治27年頃には宮崎飫肥間の全線が開通している。山仮屋随道の工事は明治24年に着工し、翌年の明治25年に完成している。
トンネル内部の覆工には、大阪の堺から取り寄せた良質の煉瓦が使用されており、側壁部にはイギリス式の手法、アーチ部には長手積みの手法が採用されている。これらの技術は当時の最先端の土木技術であり、貴重な資料である。トンネルは内部の高さが約4.3m、トンネル幅約4.8m、道路幅員約3.8m、長さが約56mである。
山仮屋随道が建設された時期は、ちょうど人力車や客馬車が各地に普及し交通機関としての重要性が増してきた時期であり、近代日本の交通事情の変革期であった。宮崎飫肥間の県道開設とそれに伴う山仮屋随道の建設は、それまでの既存の交通体系の変革という意味において、近代日本の交通史を考える上で重要な意味を持つものである

勢田峠の切通し  宮崎市清武町木原ー鏡洲 ( 宮崎県 )

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勢田峠の切通し  宮崎市清武町木原ー鏡洲

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。リストは当初「日南市」で整理されていた。日南市教育委員会生涯学習課文化財係で入手した「歴史の道 飫肥街道」資料(旧北郷町発行か)によると、「勢田峠」は宮崎市清武町木原ー鏡洲間の飫肥街道の旧街道にある峠が正である。
日南市役所まで来て、今更、宮崎市へ戻る時間の余裕がなく、勢田峠の現地調査は省略した。資料のみ載せる。そのうち再訪したい。県道27号の鏡洲峠(旧県道の鏡洲峠を「勢田峠」と説明するHPもある)や鏡洲小学校前は、通ってきている(写真3,4)。

勢田峠の切通し せた
宮崎市 <飫肥街道> 切通し 江戸期? 歴史の道百選 当時のまま 清武川〜加江田川間の丘陵を横断する山道の頂部 1 C

(2016年9月19日 追 記)

2016年8月9日に再訪したときは、清武町側「県立みなみのかぜ支援学校」横を行き、街道道がわからず強引に谷間を上がった。尾根道と合い左上に登り、岩穴2つがある峠と思われるところを調査したが、勢田峠の状景写真と違う。岩穴は戦時中の高射砲陣地の防空壕と地元で聞いた(写真5〜7)。

その後、宮崎市きよたけ歴史館に照会。「前田博仁氏が、鉱脈社から出された「飫肥街道」の関係頁や、近年、宮崎市木花のまちづくり推進委員会里山部会が飫肥街道の地図を作成されまして、その中にも写真や地図がありました」ということで、資料を入手した。
勢田峠は、「竹ノ内(宮崎市)−勢田(清武町)間、標高77mの峠」。地図と竹ノ内側「丸野勢田峠入口」写真があった(写真8〜11)。竹ノ内側からが却ってわかりやすいと判断した。

奄美大島の帰り2016年9月10日朝に宮崎市を再び訪問。資料写真の竹ノ内側「丸野勢田峠入口」を確認した。県道339号の「第二竹の内橋」先、星叶バス停から集落奥の渡辺宅まで進む。車庫右横の広い山道。ここが資料写真の場所で、「丸野勢田峠入口」であった。
150mほどの所で広い山道はL状急カーブするので、広い山道を外れ直進して藪内を探す(写真15地点)と踏跡がある。先は明瞭な街道の旧道で、杉の大木があるところを登り縁石を見ながら、やがて鞍部の峠に出る。
飫肥街道「勢田峠」の状景写真と合う。勢田峠の切通しがあった(写真12〜21)。最後の写真は、清武側から見た勢田峠の尾根。

松井用水  宮崎市清武町新町2丁目ほか ( 宮崎県 )

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松井用水  宮崎市清武町新町2丁目ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。県道13号により宮崎市清武町新町2丁目に行き、上使橋北交差点から右折すると、清武川に架かる橋上から松井用水の井堰と取水口が見える。西用水路は、岩切交差点から県道337号沿いに流れていた。
松井用水の詳しくは、次を参照。水路図も同HPから。  http://www.maff.go.jp/kyusyu/nn/history/19.html

松井用水 まつい
宮崎市 清武川→八重川 用水路 長11㎞ 寛永17(1640) 市教委 昭和58に大規模修復 飫肥藩清武郷の松井五郎兵衛が、天水に頼るため水不足で困っていた農民を救うため私財により開削 3 C

去川のイチョウ  宮崎市高岡町内山 ( 宮崎県 )

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去川のイチョウ  宮崎市高岡町内山

現地説明板は、次のとおり。宮崎市街から国道10号により大淀川沿いに遡る。高岡町赤谷交差点で国道268号と分岐するが、左折した国道10号をそのまま進むと、去川小学校前に案内板がある。

去川のイチョウ  国指定天然記念物 指定年月日 昭和10年12月24日

このイチョウは、島津藩主初代忠久公(1179年〜1227年)が当時、薩摩街道であったこの地に植えられたものと伝えられています。
この事から推定しますと、樹齢は約800年と考えられます。
幹の周囲約10m、高さ紛約41m、枝張りは東に約10.3m、西に約13.0m、南に約10.2m、北に約16.1mあります。
幹は、空に向かって大きくのびており、太い枝が少ないのが、このイチョウの特徴で、秋には多<の実をつけます。
平成5年3月22日  宮崎市教育委員会

去川関所御定番 二見家住宅(主屋一棟)  宮崎市高岡町内山 ( 宮崎県 )

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去川関所御定番 二見家住宅(主屋一棟)  宮崎市高岡町内山

現地説明板は、次のとおり。宮崎市街から国道10号により大淀川沿いに遡る。高岡町赤谷交差点で国道268号と分岐するが、左折した国道10号をそのまま進むと、去川小学校前に案内板がある。

去川関所御定番 二見家住宅(主屋一棟)  市指定有形文化財 

二見家は、去川の関所の御定番を勤めた家です。関所が設置された天正年間(1573年〜1591年)以降、代々この地に居住してきました。
二見家住宅の建築様式には、『二棟造り(分横型)』と呼ばれる南九州の民家の特徴が取り入れられています。右側の棟は『座敷棟(オモテ)』と呼ばれ、来客を迎える接客空間として利用され、左側の棟は『居室棟(ナカエ)』と呼ばれ、二見家の私的な空間として利用されました。
二見家住宅は、同家に残された古文書に『去川御仮屋』と記されています。『御仮屋』とは、薩摩藩では地頭や領主の詰所のことを言い、同様に二見家住宅が公的な『役所』として位置づけられていたことがうかがえます。藩主など、薩摩街道を通行する上級身分の善が宿泊・休憩する建物としても使用され、嘉永6年(1853年)には藩主島津斉彬、明治4年(1871年)には勅使岩倉具視がこの建物に立ち寄りました。
建築の時期は、解体時の調査、及び二見家文書の記述によって『座敷棟(オモテ)』が安政2年(1855年)、『居室棟(ナカエ)』が明治28年(1895年)とわかりました。」
指定年月日 平成16年10月13日  宮崎市教育委員会

去川の関・跡  宮崎市高岡町内山 ( 宮崎県 )

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去川の関・跡  宮崎市高岡町内山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。宮崎市街から国道10号により大淀川沿いに遡る。高岡町赤谷交差点で国道268号と分岐するが、左折した国道10号をそのまま進むと、去川小学校前に去川の関・跡の案内板がある。

去川の関・跡 さるかわ
宮崎市 高岡町内山 関所 永禄年間(1558-70) 県史跡 市教委/WEB 門柱跡とされる礎石1個が残存 薩摩路への入口にあたる関所→厳しい取り調べが行われていたと言われる/永禄年間に伊勢の国から島津氏を頼ってきた二見久信が番所での努めを行い、以来代々二見家が番所を守った 4 B