九州(大 分 県)」カテゴリーアーカイブ

長洲の石干見  宇佐市長洲 ( 大分県 )

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長洲の石干見  宇佐市長洲

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道23号宇佐市長洲小松橋手前から県道528号に入り、長洲漁港まで行く。海岸埋立地の先端駐車広場に、宇佐ロータリークラブが「石干見復元記念日時計」を設置している。
海岸一帯を覗くと、円弧の魚垣が見えた。豊後高田市で小田原の道標探しに時間を取り過ぎたが、ここ石干見の潮時には何とか間に合った。

長洲の石干見 ながす、いしひび
宇佐市 長洲海岸 魚垣 径約180m 江戸期?? WEB 平成18に復元 昭和10年代に7基使われていたことは分かっているが、その起源が近世由来の可能性もある/復元されたのは7基のひびの中の「宮ひび」 3 B

小田原の道標  豊後高田市小田原 ( 大分県 )

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小田原の道標  豊後高田市小田原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。豊後高田市街から県道34号により南東の小田原地区へ向かう。浄周寺手前から集落内の道に入り白鳥神社まで行く。西2つ目の道角にこの道標がある。所在図参照。
白鳥神社あたりと聞いて出かけたが、地区で知る人と会わず、アジサイの茂みに隠れ私は見落とした。豊後高田市教育委員会に調査を依頼したので、画像撮影提供は同市である。

小田原の道標 こだわら
豊後高田市 白鳥神社・西の三叉路<奈多行幸会道> 石道標(蒲鉾型) 天保3(1832) 歴史の道・奈多行幸会道p26 原位置(ただし、民家の生垣内) (正面)「是ゟ、右 きよたき道/左 いしぶつき道 きつき道」 2 C

新屋敷の石畳  豊後高田市玉津 ( 大分県 )

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新屋敷の石畳  豊後高田市玉津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道29号豊後高田市役所先の玉ノ井橋から左折し光圓寺奥まで行く。高台へ登る坂道があり、ここが新屋敷の石畳である。上部の未舗装部分に石畳が残る。

新屋敷の石畳 しんやしき
豊後高田市 <肥後街道> 石畳道 長約20m 江戸期 歴史の道・肥後街道p29 新屋敷付近と新屋敷から小高野の途中の坂道に残る 角形をした大きな石板をきれいに並べた構造→江戸期としては稀 2 C

光圓寺中門  豊後高田市玉津 ( 大分県 )

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光圓寺中門  豊後高田市玉津

現地説明板は、次のとおり。県道29号により豊後高田市役所先の玉ノ井橋交差点まで行く。左折して上町バス停まで入ると、光圓寺がある。

中 門(登龍門)
江戸時代の正徳元年(1711年)に建立されました。
木口には「麒麟(きりん)」・「鳳凰(ほうおう)」・「象」が彫られ、門の大きさに比べ、彫刻が多いと言われています。
特に、本堂側を見ますと「鯉」、そして反対側には「龍」が彫られており、古来より芝崎(現在の玉津)の「登龍門」と言われています。

真玉海岸  豊後高田市臼野 ( 大分県 )

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真玉海岸  豊後高田市臼野

ツーリズムおおいたHPの観光スポット情報による説明は、次のとおり。国道213号沿い豊後高田市臼野にある海岸。

真玉(またま)海岸の夕陽

真玉海岸は大分県で唯一、水平線に沈む夕陽を目にすることができることで知られています。晴れた日の夕暮れ時には辺り一面が真っ赤に染められ、水面にキラキラとオレンジ色の夕陽が写り、最後には真ん中に陽が落ちてゆき、その幻想的な姿に魅了されます。美しい夕陽が見れるスポットとしてテレビでも度々紹介されており、「日本の夕陽百選」にも選定されています。真玉海岸は、最干潮時にも海水が全てなくならず、水が少し残り干潟ができます。…           

櫛来のシシ垣  国東市国見町櫛来 ( 大分県 )

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櫛来のシシ垣  国東市国見町櫛来

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。図資料は国東市提供の郷土誌から。私が訪ねたのは、権現崎近くの尾根。地元松川氏の案内で、国道213号道の駅くにみ前から国見海洋センター左横の荒れた林道(普通の車は通行不能)をしばらく登った雑木林の高台。シシ垣遺構を写真のとおり確認できた。
後ろの写真は、シシ垣開口部の海岸埋立地から見た櫛来周辺の山々の尾根。

櫛来のシシ垣 くしく
国東市 (国見町櫛来) 鹿垣 長12㎞(当初),土手上部幅約1m,下部幅2,高1.3m 享和2(1802) 市教委 樹木で侵食 櫛来地区を完全に取り巻くように造られた鹿垣(開口部は港のみ)/猪ではなく鹿を防ぐため(村人が信仰していた櫛来社では、鹿を殺したり食べたりすることを厳しく禁じていたため、侵入を防止するしかなかった) 3 A

この項は、次のブログ「岐部氏の正月屋敷探検 〜 国見町」記事も参照。櫛来との境となり、同所あたりの山中でも、シシ垣遺構を確認できることを記している。
http://blogs.yahoo.co.jp/mikey0505jp/64126957.html

(2015年11月3日 追 記)
上記「岐部氏の正月屋敷」の記録確認のため、10月25日に現地を訪問した。国見町の新涯隧道からオレンジロードにより南東へ向かう。岐部川へ出る手前の「尺間神社」赤鳥居横がこの林道入口のようである。
かなり登り林道が未舗装となる手前から分岐道に入り、上部の尾根一帯を探したがわからない。上部は果樹林で、現在のシシ網は長く仕掛けられていた。林道を戻る途中、道脇の広場にシシ垣らしい土塁を見たが、ここかどうかは不明。

旧千燈寺跡  国東市国見町千燈 ( 大分県 )

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旧千燈寺跡  国東市国見町千燈

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道213号国見町国見大橋近くから県道31号により南へ向かう。現在の千燈寺先の不動口に「旧千燈寺跡」への案内標識があり、左折してその道を山手へ登って行く。

旧千燈寺跡

旧千燈寺跡(きゅうせんどうじあと、きゅうせんとうじあと)は、大分県国東市国見町千燈にある寺院である千燈寺の旧寺院跡。旧千燈寺、千燈寺跡とも呼ばれる。本項では、現在の千燈寺についても併せて説明する。

歴史
千燈寺は、六郷満山の諸寺を創建した仁聞(仁聞菩薩)が、718年に六郷満山の中で最初に創建した寺院であると伝えられる。千燈寺という寺号は、仁聞がこの寺の近くにある五辻岩屋で修行をしていると、東北海の龍王がその徳に感じて千の燈を献じたことから名付けられたとされる。山号は補陀落山(ふだらくさん)。千燈寺はまた仁聞の入寂の地であるとも伝えられている。
かつては六郷満山の中山本寺で、16の末寺を有し六郷満山の中核を成す寺院として栄え、「西の高野山」とも称された。しかし、天正年間に大友宗麟による焼き討ちに遭って大規模な伽藍は焼失し、文禄年間に再建されたものの往時の繁栄を取り戻すことはなかった。
現在の千燈寺は、旧千燈寺の坊が昭和初期に山麓に移転したものである。旧千燈寺跡はかつては荒廃していたが、近年、旧千燈寺跡を含む千燈岳一帯が六郷満山ふれあい森林公園として整備されている。

千燈寺
現在の千燈寺は、旧千燈寺に残った坊が昭和初期に山麓に移転したもので、大分県道31号山香国見線沿いにある。国東六郷満山霊場第二十三番札所である。
大分県の有形文化財に指定された鎌倉時代中期の木造如来坐像(像高52cm)及び石造宝塔(総高59cm)、大分県の有形民俗文化財に指定された慶長15年(1610年)の銘のある千燈寺修正鬼会面などを所蔵している。

千燈石仏
千燈寺の近くの県道31号沿いには、千燈石仏と呼ばれる石仏がある。この石仏は、高さ1m、幅2mの板状の自然石に、菩薩来迎図を半肉彫りしたもので、正面に阿弥陀如来、その左に観音菩薩、勢至菩薩などが刻まれ、その周りで25菩薩聖衆が種々の楽器を奏でて菩薩を迎える様が表されている。鎌倉時代の作とされ、大分県の史跡に指定されている。

旧千燈寺跡
旧千燈寺跡は千燈岳および不動山の中腹にあり、大分県の史跡に指定されている。

西行返し
千燈寺から細い坂道を登ると、まず西行返しと呼ばれる場所に着く。この場所については、和尚と問答するために千燈寺を訪ねようとした西行が、ここで出会った小僧に試しに問答をしたところ、その答えが機知に富んでいたため、小僧でさえこのような答えを返すとは和尚は如何ばかりかと恐れをなし、寺を訪れることなく帰って行ったという伝承が残り、その名の由来となっている。なお、西行にまつわるこの種の逸話は、日本各地に多数伝わっている(西行#旅路において参照)。

伽藍跡
西行返しからさらに進むと、伽藍跡に着く。千燈寺の伽藍跡には堂宇はなく、中心となる護摩堂跡に一対の仁王像が立ち、各所に石垣が残るのみである。仁王像は、一枚岩に半肉彫りにされた珍しいものである。

奥の院
伽藍跡からさらに約500m登ると、奥の院がある。奥の院は岩壁に穿たれた岩屋の中に嵌め込まれるように建てられており、本尊の千手観世音菩薩像が安置されている。奥の院の左手には、仁聞が入寂したといわれる窟があり、枕の岩屋と呼ばれている。また、周囲には六所権現などもある。

千燈墓地
伽藍跡から奥の院とは別の方向に登るか、奥の院から山道を抜けると千燈墓地に着く。ここには仁聞の墓と伝えられる仁聞国東塔(総高2.65m、大分県有形文化財)や、千基に及ぶ五輪塔群がある。

東不動
五輪塔群からさらに登ると、不動山の登山口に出る。不動山は山全体が東不動、五辻不動(ごつじふどう)などと呼ばれる霊場となっており、その中腹には五智の岩屋(ごちのいわや)と呼ばれる窟がある。岩窟に近づくには両側が切り立った狭い岩場を、鎖を頼りに登る必要がある。半分は岩屋に嵌め込まれるように、半分は崖に迫り出すようにして堂宇が建っている。ここは旧千燈寺跡の中でも特に展望の利く場所で、姫島を遠望できる。

西不動
東不動に対して、千燈石仏付近の岩峰群を一般に西不動と呼んでいる。西不動の登り口にあるのが尻付岩屋で、県道沿いの崖を穿った中に堂宇が建っており、仏像が安置されている。尻付岩屋の前の林道から山に登ると太郎天岩屋、大不動岩屋、小不動岩屋などがあるが、安置されていた仏像などは千燈寺などに移され、大切に保管されている。東不動、西不動ともに旧千燈寺関連の史跡であり、その呼称は旧千燈寺から見て東側に位地するか、西側に位置するかという意味である。

西行戻し石柱  国東市国見町千燈 ( 大分県 )

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西行戻し石柱  国東市国見町千燈

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号国見町国見大橋近くから県道31号により南へ向かう。現在の千燈寺先の不動口に「旧千燈寺跡」への案内標識があり、左折してその道を山手へ登って行くと、左手に参道入口の鳥居があり、「西行戻し」はこの上すぐあたりである。
最初の写真は、赤根温泉から見た千灯岳(標高605.8m)。

西行戻し石柱
国東市 (千灯) 高1m以上 慶応4(1868) 市教委 保存状態良好 鳥居の異形又は山門の標識か?

(2015年10月19日 追 記)
遺産サイトから連絡があり、「西行戻し石柱は、江戸末期の角柱鳥居の笠木が紛失したものと解釈し、対象外と致しました。」となった。

山 口 池  国東市国東町岩戸寺 ( 大分県 )

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山 口 池  国東市国東町岩戸寺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号国東町浜から県道544号により西へ向かう。岩戸寺入口先の県道沿い左に山口池がある。

山口池 やまぐち
国東市 (国東町岩戸寺) 溜池 堤長約170m 元禄3(1690) 市教委 大正6・14、昭和7・33に改修 斜樋、土堰堤、スリース 3 C

岩 戸 寺  国東市国東町岩戸寺 ( 大分県 )

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岩 戸 寺  国東市国東町岩戸寺

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道213号国東町浜から県道544号に入り西に向かうと、途中に岩戸寺入口の案内板がある。

岩戸寺(国東市)

岩戸寺(いわとうじ、いわとじ)は、大分県国東市国東町岩戸寺の国東半島の北東部にある天台宗の寺院。山号は石立山(いしだてさん)。1979年(昭和54年)5月15日に大分県の史跡に指定されている。

概要
養老2年(718年)に仁聞菩薩によって開かれたと伝えられる古刹で、六郷満山の末山本寺であった。
寺の入口に立つ一対の仁王像のうち、右側の阿形像には文明10年(1478年)の銘があり、在銘の丸彫り仁王像としては日本最古のものである。
また、寺の裏手にある高さ約3.3mの国東塔は、国の重要文化財に指定されている。弘安6年(1283年)の銘があり、国東半島にある国東塔の中で最古と言われている。
本尊は、平安後期作のカヤの一木造りの薬師如来像である。
国東六郷満山霊場第二十六番。

修正鬼会
修正鬼会(しゅじょうおにえ)は、旧正月(1・2月)に六郷満山の寺院で行われる火祭り。祖先が姿を変えたとされる鬼がたいまつを持って集落を回る。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
現在では、岩戸寺、成仏寺(国東市)、天念寺(豊後高田市)の3つの寺のみに残っており、岩戸寺では成仏寺と交互に、西暦の奇数年に催される。