投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長岩山のサザンカ自生地  久留米市草野町吉木 ( 福岡県 )

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長岩山のサザンカ自生地  久留米市草野町吉木

久留米市HPの「郷土の文化財」による説明は、次のとおり。久留米市草野町から県道798号により耳納スカイライン耳納平へ登った途中、長岩山の峠に説明板があった。
「さが名木100選 53 千石山のサザンカ  神埼郡吉野ヶ里町松隈」は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/899

37 長岩山のサザンカ自生地

種 別:天然記念物(昭和60年5月28日 県指定)
所在地:久留米市草野町吉木
アクセス:草野町から南へ約2.5km

サザンカ(山茶花)は、ツバキ科の植物で、わが国では九州、琉球諸島、四国や中国地方の温暖な山地に自生し、11月頃に平たく開いた直径5〜8cmの白い五弁花をつけます。
椿と良く似ていますが、サザンカは花びらがばらばらに散るのに対し、椿は花ごと落ちます。また、子房に白い毛が密生し、葉の主脈や若枝に細かい毛が出るのもサザンカの特徴です。
長岩山には、2ヘクタールに平均樹高4m、幹の直径が7、8cmのサザンカが数千本群生し、自生地としては佐賀県東背振村の「千石山サザンカ自生北限地帯」に次ぐ規模を誇っています。

稲数天満宮参道橋  大刀洗町栄田稲数 ( 福岡県 )

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稲数天満宮参道橋  大刀洗町栄田稲数

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。大刀洗町の東部。大刀洗町役場から県道743号により北へAコープ先まで行き、東への県道509号へ入る。栄田橋を渡った先が、大刀洗町稲数地区である。県道をはさんで北が上稲数、南が下稲数という集落。
後ろの写真は、天満宮県道側にあった銘文不明の石柱。新しく国境石ではないようだ。それと県道反対側民家の庭の道標。

№5,076  稲数天満宮参道橋

三井郡大刀洗町栄田 稲数(いなかず)
橋長:2.9m  橋幅:1.9m
2径間円弧桁橋
架設:明治34年

稲数天満宮。周辺が広々とした参道の途中に架かっています。
親柱。
東側に「明治丗四年・・・」、西側 「三月吉日・・・」と刻む。

稲数の国境石と控石  大刀洗町稲数   ( 福岡県 )

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稲数の国境石と控石  大刀洗町稲数  

HP「筑前 国境石散歩」筑前・筑後 兼用(朝倉市・大刀洗町)による説明は、次のとおり。大刀洗町の東部。大刀洗町役場から県道743号により北へAコープ先まで行き、東への県道509号へ入る。栄田橋を渡った先が、大刀洗町稲数地区である。県道をはさんで北が上稲数、南が下稲数という集落。

国境石と控石は、信号から右折したすぐの下稲数のそれぞれの民家庭に移設されてある。昭和の終わり〜平成の初め、栄田橋西の圃場整備の際、掘り出されたものを、一部は大刀洗町中央公民館前に、一部を地元立ち会った方の民家に移設したようである。場所は所在図のとおり。写真番号を付記する。
Dは上部が欠損した国境石で、近くの民家庭で新しい1本を確認した。(所在図 D 写真 11〜15)

南北方向

大刀洗町稲数(民家1)  (所在図 B 写真 6〜8)

文 字  筑前)従是東筑前國  筑後)從是西北筑後國
場 所  大刀洗町稲数の民家です。
備 考
サイズ  高さ 105×横 21×奥行き 15.5(cm)

大刀洗町稲数(民家2)  (所在図 C 写真 9〜10)

文 字  筑前)従是東筑前國  筑後)從是西筑後國 
場 所  大刀洗町稲数の民家です。
備 考
サイズ  高さ 113×横 23×奥行き 15.5(cm)

南北方向 控石

大刀洗町稲数(民家)  (所在図 B 写真 1〜5)

文 字  表)百七番境杭  右)百六番境杭  左)百八番境杭 天保十五年甲辰  裏)控石 三月建立
場 所  大刀洗町稲数の民家、Hさんのお宅です。
備 考
サイズ  高さ 91×横 31×奥行き 28(cm)

倉吉の国境石  朝倉市倉吉 ( 福岡県 )

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倉吉の国境石  朝倉市倉吉  

HP「筑前 国境石散歩」筑前・筑後 兼用(朝倉市・大刀洗町)による説明は、次のとおり。朝倉市の南西部。県道584号により朝倉市倉吉の倉吉橋南まで行く。西へ市道の小橋を渡り、すぐ左折して路地奥の住宅地に入ると、原野宅奥庭にこの国境石が建っていた。裏面文字は写し忘れた。
3枚目写真は、たしかこのあたりだろう。近くの二又川で見た水刎。

朝倉市倉吉(民家)

文 字  筑前)従是東南筑前國  筑後)從是西北筑後國 
場 所  朝倉市倉吉の民家です。
備 考  筑前側後ろに×印を付けていますが、元々国境の溝がその辺りを走っており、
この石はその溝の中に建っていた(埋まっていた)そうです。
サイズ  高さ 104×横 22.5×奥行き 15.5(cm)

高食若宮八幡宮の国境石  大刀洗町高食 ( 福岡県 )

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高食若宮八幡宮の国境石  大刀洗町高食

HP「筑前 国境石散歩」久留米・筑前国境による説明は、次のとおり。大刀洗町の東部。大刀洗町役場から県道14号により東へ朝倉市との境「桂川橋」近くまで行き、土手の県道から北の市道へ下って進む。
この辺りが大刀洗町高食地区で、少し先の路地右奥に「若宮八幡宮」の鳥居が見える。境内横に「高食農業研修所」があった。

高食(太刀洗町)

文 字  従 是 南 筑 後 以下不明 
場 所  大刀洗町高食(こうじき)の若宮八幡宮内にあります。
備 考  太刀洗・甘木のもやいの国境石とは違って、白鳥の国境石と同タイプです。
(高食と甘木市白鳥は国境を挟んで隣り合う)
この地域には、この石と対となるべき筑前の石も含めてこのタイプの国境石がいくつかあったのでしょうね。
サイズ  高さ 88×横 36×奥行き 22(cm)

うきは市生涯学習センター前庭にある国境石  うきは市吉井町 ( 福岡県 )

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うきは市生涯学習センター前庭にある国境石  うきは市吉井町

うきは市生涯学習センター前庭に移設され展示している国境石6基。HP「筑前 国境石散歩」による説明は、次のとおり。
現地写真は、向かって左側手前からそれぞれを上面とも撮影してきたので、そのまま掲載する。資料と対比すると、写真の番号となるようである。民家の分は、あとの記事とする。

うきは市(吉井)

吉井町(2005/03/20よりうきは市)に現存する国境石は、全て昭和28年の大水害の後とスポーツアイランド造成時に、現スポーツアイランドの敷地から掘り出されたものだそうです。スポーツアイランドはその名の通り筑後川の中洲に作られており、洪水で流された国境石がちょうどこの地で堆積していったものと推測されます。
したがってこれらの国境石は元々どこにあったのか(スポーツアイランドより上流であることは確実ですが)不明ですし、年代も確定できません(年代はばらばらのはずです)。

吉井町(現 うきは市)とその周辺の石については吉井町郷土史会の方に大変お世話になりました。

2009年正月に再訪したところ、千年小学校の国境石2基が公民館の前庭に移設されていました。写真を撮り直して来ましたので、現在公民館にある6基についてはは全面的に書き換えをいたしました。 
尚、そのうちの3基は筑後の石ですので、筑後のページへ移設します。(2009/01/10)

現在は公民館前に6基が揃う 6基のうち1基は銘文不明の石

現在うきは市吉井町に現存する国境石のうち、「從(従)是+方角+国名」が読み取れるのは、筑前3基(公民館2基・民家1基)と筑後2基(公民館1基・民家1基)ですが、全てが筑前「從」・筑後「従」で統一されています。(公民館2は「筑後領」のみが判読可能、公民館3は「従是西」のみが判読可能。)

筑前石は全て「從」  公民館1  公民館5  民家1
筑後石は全て「従」  公民館4  民家2
古毛の控石は、筑前国 村境石にあります。

公民館 1 (写真 5.6)
文 字  從 是 東南 筑 前 (以下不明)
場 所
備 考
サイズ  高さ 88×横 47×奥行 33(cm)

公民館 5 (写真 14,15)
文 字  從 是 北東 筑 前 領
場 所
備 考  千年小学校内に設置されていた石です。   千年小にありし頃
サイズ  高さ 119×横 30×奥行 21(cm)

(以下、3基は筑後の石で、筑後のページへ移記されたもの(2009/01/10))

公民館 2 (写真 7.8)
文 字  (上部不明) 筑 後 領
場 所
備 考
サイズ  高さ 84×横 33×奥行 29(cm)

公民館 3 (写真 9.10)
文 字  従 是 西
場 所  この石は「西」以降が地中に潜っており「筑前」「筑後」が読めませんが、上記のようにこの地域の国境石は筑前=從・筑後=従で統一されていることから、この石が筑後石であることは間違いありません。
備 考
サイズ  高さ 73×横 36×奥行 23(cm)

公民館 4 (写真 11〜14)
文 字  従 是 南西 筑 後 領 
筑後筑前の国境石で現浮羽郡吉井町大字千年 字丹通の東方に、二本とも同所に建てられていたものである。
別の石に文化十二年乙亥三月(百五十年前)と記されていた。
横に彫られている案内文です。文化15年は1815年です。
場 所  千年小学校から移設されてきた石です。並び立つ筑前石はこちらに。
備 考
サイズ  高さ 142×横 42×奥行 43(cm)

公民館 銘文不明 (写真 16)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストのデータに、次のとおり登載された。

吉井町の国境石1 よしい
うきは市 市生涯学習センター・前庭 境界石(花崗岩) 高119㎝,幅30㎝,厚21㎝ 文化12(1815) WEB(筑前国境石散歩) 移設(もと、千年) (正面)「從是、北/東、筑前領」/筑前国〜筑後国/下記の「吉井町の国境石2」と一対の可能性 2 C

吉井町の国境石2 よしい
うきは市 市生涯学習センター・前庭 境界石 高142㎝,幅42㎝,厚43㎝ 文化12(1815)? WEB(筑前国境石散歩) 移設(もと、千年)/右面に昭和42の移設経緯の追刻 (正面)「従是、南/西、筑後領」/筑後国〜筑前国/上記の「吉井町の国境石1」と一対の可能性→建立年は推定 3 C

吉井町の国境石3 よしい
うきは市 市生涯学習センター・前庭 境界石 高88㎝,幅47㎝,厚33㎝ 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 移設 (正面)「從是、東/南、筑前…」/筑前国〜筑後国 2 C

吉井町の国境石4 よしい
うきは市 市生涯学習センター・前庭 境界石 高84㎝,幅33㎝,厚29㎝ 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 移設 (正面)「従是西 筑後領」/筑後国〜筑前国 2 C

吉井町の国境石5 よしい
うきは市 市生涯学習センター・前庭 境界石 高73㎝,幅36㎝,厚23㎝ 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 移設/下部埋設 or 折損滅失 (正面)「従是西 …」(「従」が使用されているので筑後領)/筑後国〜筑前国 3 –

うきは市筑後吉井重要伝統的建造物群保存地区  うきは市吉井町 ( 福岡県 )

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うきは市筑後吉井重要伝統的建造物群保存地区  うきは市吉井町

国文化財等データベースによる説明は、次のとおり。国道210号うきは市上町交差点などから北へ入る。「白壁通り」などとなっている。

重要伝統的建造物群保存地区
主情報
名称: うきは市筑後吉井
ふりがな: うきはしちくごよしい
種別1: 在郷町
種別2:
面積: 20.7
その他参考となるべき事項:
告示番号:
選定年月日: 1996.12.10(平成8.12.10)
追加年月日:
選定基準1: (三)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
選定基準2:
選定基準3:
所在地: 福岡県うきは市

解説文: 久留米と日田を結ぶ豊後街道の宿場町で、江戸時代後半は筑後地方の経済の中心的役割を担う在郷町に発展した。明治2年の大火後塗家造が普及し、豊後街道沿いの塗家造の町家群とその北側に広がる屋敷群、吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路が一体となって歴史的風致を形成する。

鏡田屋敷(旧籠田家)と清光禅寺  うきは市吉井町若宮 ( 福岡県 )

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鏡田屋敷(旧籠田家)と清光禅寺  うきは市吉井町若宮

うきは市HPの「歴史・伝統文化」などによる説明は、次のとおり。国道210号うきは市上吉井交差点などから北へ入ると、南新川沿いに「鏡田屋敷」がある。後ろ写真6〜7が、近くの清光禅寺。

鏡田屋敷

鏡田屋敷(旧籠田家)は、吉井町若宮字鏡田に位置する屋敷型建造物である。
この建物は、幕末から明治初期に建てられ、その後、座敷と2階の増築は明治26年頃と思われる。当初郡役所の官舎として建てられたといわれ、明治後期に郵便局長を務めた佐藤氏が居住し、その後、昭和初期に籠田氏が居住した。
敷地の形状は方形をなし、北側には1間幅の才の木溝が流れ、屋敷と道路とを隔てる。
屋敷のほぼ中央を占める主屋は入母屋造り桟瓦葺き平入りであるが、正面に小さな破風を覗かせる。主屋の西側には付属屋が配され、屋敷地の角に土蔵が配され、北西隅の土蔵との間は玄関へのアプロ-チ、北東隅の土蔵との間は庭園となっている。主屋の東側から南側にかけて水路を引き込んだ池をもつ庭園が広がる。庭園に面した座敷は明治後期の増築で2階の居室を収めた大屋根を架けて建設された。当初の平面は明確でないが、北側に土間を設け南側に居室を設けた小規模の建物であったようだ。主屋小屋組は、居室上部が梁間3間半の2重梁、土間上部が1間半の下屋を組み合わせて、吉井では古めかしい構造である。北東隅の土蔵は、現在、尾花家住宅として利用され、平入り入母屋造りの鍵屋で、背面の一部を取り壊したが、当初は正面の直屋のみで、正面腰壁の海鼠壁も当初は堅板貼りであった。棟札によって正面部分は文久3年(1863)の建築、背面部分の増築は明治26年(1893)であることが知れる。
なお、この建物は、平成3年の台風被害により取り壊すことになっていたが、うきは市吉井町が町並み保存に取り組んでいることに理解をいただき、所有者の佐賀市在住の籠田和徳氏が吉井町に寄付され、平成9年度建設省(現国土交通省)街なみ環境整備事業により修理復元工事を行った。

開催期日 利用時間  9時から16時30分まで
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日から1月3日まで
場所・所在地 ・所在地 うきは市吉井町若宮113番地1
・伝統的建造物番号6-1・6-2・6-3
問い合わせ先 うきは市教育委員会 生涯学習課 TEL:0943-75-3343 
備考 見学料  無料
使用料 (1時間あたり)
1階 大広間 160円 1階 中広間 110円 1階 広間 60円 2階 中広間 110円
敷地面積 1,260.79m2
建物面積  535.75m2

清光禅寺

南新川沿いに足をのばすと、うっそうとした樹木と苔の庭が広がる清光禅寺がある。街中の喧噪を忘れる静寂。

南新川と水神社の由来  うきは市吉井町 ( 福岡県 )

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南新川と水神社の由来  うきは市吉井町

現地説明板は、次のとおり。HP「古賀河川図書館」> 碑文が語る筑後川から引用した。現地には国道210号うきは市上吉井交差点などから北に入る。

碑文が語る筑後川(192)

南新川の由来(五人の庄屋たちの活躍により完成した川)

南新川の由来
碑 銘  南新川の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町
建立日  ——————
建立者  うきは市吉井町

筑後川の水は大石・長野の堰の開鑿以来、今では、17.49?/sを取水可能となり、2250haの耕地を潤している。大石堰の取水口から、水は長野神社境内地をサイホンでくぐり、角間地点において、大きく北幹線、南幹線に分水され、南幹線は南新川を形成する。南新川は主に吉井町内を流れ、素晴らしい水景を創りだし、巨瀬川と古川に注ぐ。その南新川の由来が、次のように、建立されている。

「南新川の由来(五人の庄屋たちの活躍により完成した川)
この川は、江戸期初頭、旧江南村に住んでいた五人の庄屋たちが思い立ち、この地域の村人と一緒に造り上げた人工の川です。新川が出来る前のこの地域は、周辺の川の水位より土地が高かったため、水が思うように使えませんでした。そのため7、穀物の収穫量も少なく農民の飢えを見兼ねた五人の庄屋たちは、筑後川の水をどうにかして引き入れようと話し合い、ここから10キロ離れた筑後川上流の大石に取水口と西部へ水が流れる用水路を造る工事の嘆願書を久留米の有馬藩に出しました。この嘆願書には「工事の費用は、五人の庄屋が全部受け持ち決してお上にはご迷惑をかけませぬ。」と書かれていました。
1664年1月11日に工事が始まり長野村の入り口には五人り「はりつけ台」が建てられ、これを見た人々は「五庄屋どんを殺すな」とばかりに老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、約2ケ月という短い期間で人工の川(南新川)が完成しました。南新川とうきは市の北部を流れる北新川は、西部の田畑を潤します。新川は田畑だけでなく、その水源を利用した水車や唐臼が造られ、精米、製粉、また製麺、酒造、櫨蝋や菜種油等の工業も支えました。それらは久留米と日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えた吉井町の商業にさらなる発展をもたらしました。また、新川の水は吉井町中の小さな用水路としても流れており、人々の防火・生活用水としても活用され続け、今もこの地域を潤しています。」

碑文が語る筑後川(193)

この川(しん川)の由来

碑 銘  この川(しん川)の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町(吉井小学校校門前)
建立日  −
建立者  −

1664年大石・長野堰が開鑿され、その用水が吉井町を貫流し、南新川と呼ばれている。そのしん川は、吉井小学校の前を流れている。小学生は登・下校の時に、この川を渡っている。校門の前に、その碑が建っている。

「この川(しん川)の由来
今から三百年前ほど前の浮羽地方の土地は非常に肥えていましたが、土地が高く水に乏しいのでひでりのため作物がみのらず、が死する人がたくさんあってこまっていました。五庄屋はどうかして、これを救おうと思い立ち久留米藩主有馬候に筑後川の水を引き入れる工事を願い出ました。しかし、藩主は工事の容易でないことを思われて、なかなかおゆるしになりませんでした。
そこで、五庄屋は死を決して嘆願し「もし事が成就しなかった時は、私共五人をお仕置きください。」と申し出ました。そこで長野の土手に五つのはりつけ台が立てられ工事が始まりました。郡内の人は、なさけ深い五人の庄屋を殺してなるものかと昼夜一生けんめい働き、女、子どもまで手伝って木や石をはこび、こんなりっぱな川ができました。
それまでは、水が少なく作物がとれなかったこの地方もこの川の水のおかげでどんなひでりの年でも田うえができ、収穫の多い土地になりました。これは五人の庄屋と村人たちが心を合わせ必死になって力を盡したからです。これから二キロメートルばかり東の方に五庄屋をおまつりした長野水神社があります。その又二キロメートルばかり東の方に筑後川の大石堰があり、そこからこの川の水を引いています。」

碑文が語る筑後川(194)

水神社の由来

碑 銘  水神社の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町
建立日  −
建立者  うきは市教育委員会

うきは市吉井町には、大石・長野堰から筑後川の水が引かれ、その水は南新川を造りだした。その南新川の流れは、素晴らしい親水空間を創りだしている。南新川のほとりに水神社が建っている。

「水神社の由来
この水神社は、吉井町で最も小さい九尺二間の拝殿と、奥の神殿は石祠という昔ながらの素朴なたたずまいですが、吉井町を東西に貫通する用水路(南新川)の要に位置する大切な川の神様で、日々の暮らしや生産流通に深く関わって、長く地域の人々の尊崇を集めてきました。
水神社を包むように流れる水路が掘られたのは、三百年以上も昔。当初は灌漑用でしたが、すぐ生活用水にも利用され、防火用や水上運輸にも重宝されました。やがて、水車を回して新しい動力エネルギー源となり、数々の新興産業を育てては、吉井町の富と文化を生み出してきました。その一方では、恐ろしい水害や悲しい水の事故をも齎しました。
人々は川に感謝し、川を恐れ、川と大事にふれあうことの大切さを知り、それを形に表すため、この水神社を祀って天保十三年(一八四二)秋に建立したと伝えられています。この一帯の地名を「金川」といいますが、「金を生み出す川」から、名づけられたという説もあります。    うきは市教育委員会 」

志波村控石  朝倉市杷木町久喜宮 ( 福岡県 )

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志波村控石  朝倉市杷木町久喜宮

HP「筑前 国境石散歩」その他の筑後境国境石による説明は、次のとおり。国道386号原鶴温泉入口交差点先の「道の駅 原鶴 ファームステーション”バサロ”」東隣り民間会社前庭に道路側を向いてある。

志波村控石

文 字
不明 
不明
志 波 村 抱
場 所
志波村(現朝倉市)にあった石であることは間違いないのですが、どこにあったものかは不明だそうです。
旧杷木町(朝倉市)は豊後と筑後に接していましたが、志波村は筑後境側です。
現在は、朝倉市(旧杷木町)の民間の会社の前庭にあります。
備 考
控石だと思います。
肝心な2面が読めません。いつも思うのですが、家に帰って画像でみると読めそうなんですが…