投稿者「misakimichi」のアーカイブ

弁天坂の石畳  産山村大利・片俣 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

弁天坂の石畳  産山村大利・片俣

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道216号により産山村へ向かう。水恩碑や大利石畳道路のあるところから豊後街道に入るが、弁天坂の石畳までは、まだ歩いて1.2kmある。そのまま県道を進み、南部公民館手前まで行くと、ここに車道入口があり、「弁天坂の石畳」まですぐ行ける。

弁天坂の石畳 べんてんざか
(阿蘇)産山村 <豊後街道> 石畳道 長80m,幅2.5m 文化8(1811) 村史跡 村教委 火山灰土のため何度も普請/昭和59から5年かけて復元整備 施主:惣庄屋・久住善兵衡/「弁天様が牛に乗って下られたので弁天坂と呼ばれる」との伝承 2 –

十五里塚・茶沸場跡・へき谷の道標  阿蘇市波野大字小地野 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

十五里塚・茶沸場跡・へき谷の道標  阿蘇市波野大字小地野

HP「旧街道ウオーキング 人力」豊後街道を歩くによる説明は、次のとおり。

宮地〜坂梨〜久住
…笹倉に入り、57号線が右に大きくカーブしているところで、左側民家の塀の横に「参勤交代道石畳」と「豊後街道/歴史の道」の標柱が並んで立っているので、ここから左折して進む。

ここはきれいに整備された道で杉林の中、木漏れ日の中を歩いていく。気持ちがいい道だ。
左手に「十五里塚」の案内板が立っている。

その先、やはり左手に「茶沸場跡」の案内板が立っている。参勤交代の道路の途中に何ヶ所かの休憩所として茶屋があり、昔からこの地を茶沸場と呼んでいたのは、茶を沸かして飲んだという言い伝えがあるからと思われると説明されている。

「ヘキ谷の道標」がある。「前 熊本 鶴崎道」「ひだり ならきの なんこう」「明治元戌辰十二月建 播州龍埜 准南堂碧松」と刻まれており、「熊本城から61.5km、鶴崎港より62.5km」と書かれている。ほぼ豊後街道の中間点まできたということだ。…

笹倉の石畳  阿蘇市波野大字小地野 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

笹倉の石畳  阿蘇市波野大字小地野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号により笹倉交差点先の集落外れまで行くと、左へ入る豊後街道の旧道に「参勤交代の道石畳」説明板がある。石畳はあまりはっきりわからないが、アスファルト舗装の左側部分にわずかの幅の石畳跡が確認できる。

笹倉の石畳 ささくら
阿蘇市 <豊後街道> 石畳道 長約10m,幅1.8m 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道・豊後街道p.131 復元 街道上に残存した敷石を集めて復元したもの 4 –

坂ノ上お駕籠据場  阿蘇市一の宮町中坂梨 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

坂ノ上お駕籠据場  阿蘇市一の宮町中坂梨

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。一の宮町中心部から国道57号により滝室坂上の坂の上バス停まで行くと、4〜5軒の集落がある。「坂ノ上お駕籠据場」とは、このあたりの豊後街道の道筋であろう。

調べると坂の上バス停手前約600mの写真の場所に,「参勤交代道」と「カヲの墓」の案内板があった。この説明板に「参勤交代の時、この場所は駕籠を置き、「坂梨手永」と「久住手永」の人足交代の場所でもあり休息の場所となった。休憩中の殿様にお茶を献じたといわれる美人の「カヲ」に殿様が恋をしたという話が残っており、その墓標がこの奥に建てられている」と説明されていることがわかった。
「カヲ」の墓碑までは、ここから約200m奥へ歩く。

坂ノ上お駕籠据場 さかのうえ、おかごすえば
阿蘇市 <豊後街道> 駕籠据場 江戸期 市教委/歴史の道・豊後街道p.128 藩主休憩所で、人夫交換の場でもあった/道の一部が広くなっている 3 C

宮地道路元標  阿蘇市一の宮町宮地 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

宮地道路元標  阿蘇市一の宮町宮地

阿蘇神社駐車場から「阿蘇一の宮門前街」仲町通りを北へ進むと、県道110号に突き当たる。銘菓「阿蘇の白雪」菓舗さとう店先右の水基「白雪の水」のところにある、大正13年熊本県が設置した「宮地道路元標」。
内容は、史跡説明板のとおり。 

十二里木跡と石畳  阿蘇市一の宮町宮地 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

十二里木跡と石畳  阿蘇市一の宮町宮地

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。阿蘇神社から県道110号により西に岳川橋の先まで行く。豊後街道が斜めに入り、岳川沿いに上流に進むと、「十二里木跡」の標柱があり、このあたりに大榎と杉並木、石畳道があったのではないか。街道はすぐ川を渡り一の宮へと続く。

十二里木跡と石畳 じゅうにりぎ
阿蘇市 <豊後街道(岳川右岸)> 石畳道 長約50m,幅4-6m 江戸期 市史跡 市教委/WEB 昭和54 表面をアスファルト舗装 十二里木→明治末まで大榎があったと伝わるが、現在はない/石畳→現在は見えない/明治末まで両側に杉並木があった(伝承) 5 –

滝室坂の石畳  阿蘇市一の宮町坂梨 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

滝室坂の石畳  阿蘇市一の宮町坂梨

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号を東進、豊後街道坂梨の宿を過ぎて、13里木跡の先の国道に「滝室坂入口」の案内標識があり、坂ノ上まで登る。

滝室坂の石畳 たきむろざか
阿蘇市 <豊後街道>/阿蘇の外輪山 石畳道 長約3km→断続3ヶ所残存→350m,幅3.8m 江戸中期以前? WEB 歴史の道保存整備事業で修景復元 阿蘇の外輪山を東で越える滝室坂(標高653m)の石畳/標高差約200mを急坂で登る豊後街道最大の難所=「大坂に坂なし、板梨に坂有り」 3 B

天 神 橋  阿蘇市一の宮町坂梨 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

天 神 橋  阿蘇市一の宮町坂梨

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。国道57号を東進、坂梨小学校方面へ右折、450m先に架かっている。

№683  天 神 橋

阿蘇市一の宮町
橋長:11.5m  橋幅:3.8m  径間:6.1m
架橋:弘化4年(1847)
国道57号線、一の宮町中心部山ノ下より1.5Km東進、坂梨小学校方面へ右折、450m先に架かっています

天神橋
「天神橋の工事は、あしかけ3年を要し、約百個の石がみごとなアーチをえがいている。橋のたもとには「弘化四年丁未吉辰(1847)八代郡種山手永(現東陽村)棟梁 石工卯助」と刻まれている。
卯助の最大の事業は、緑川に架けられた下益城郡砥用町清水の霊台橋で、石工棟梁種山の卯助ら総勢72人で行なわれたとある。この霊台橋が完成の日彼はもう天神橋の着工に向けて出立していたという。
卯助は最後の一石を頂点にはめる時、その真下に威儀を正して正座したといわれ、覚悟の程がしのばれる。」
阿蘇市

豊後街道 坂梨の宿  阿蘇市一の宮町坂梨 ( 熊本県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

豊後街道 坂梨の宿  阿蘇市一の宮町坂梨

現地説明板は、次のとおり。

豊後街道 坂梨の宿

豊後街道は、熊本市新町一丁目御門前「札の辻」を起点とし、大分市鶴崎に至る全長三十一里(124km)に及ぶ参勤交代路です。
坂梨町はこの「札の辻」から東へ十三里(52km)に位置します。
天正十六年(1588)熊本城に入り、のちに肥後一国の藩主となった加藤清正はこの街道を「鶴崎路」と称し豊後の国「鶴崎港」から瀬戸内海を経て、大坂、江戸に参勤しました。
清正は肥後四大街道(豊前、豊後、薩摩、日向)のうちこの鶴崎路を最も重要視して道路の確保、保全に万全を期したといわれています。
寛永九年(1632)加藤氏のあと藩主となった細川忠利もこの道路に大きな関心を寄せ改良整備に力を入れました。
寛永十二年、徳川幕府の定めた「武家諸法度」により参勤交代が法制化された為、忠利以降の藩主も更に道路の整備改良維持に意をそそぎ江戸への参勤、熊本への下国と街道を利用しました。
また、街道のこうした整備保護により庶民の旅の世界が拡大され商取引が盛んになり寺社参詣が流行し、単に参勤路としてでなく産業、信仰の道としても大きく発展していきました。
坂梨の町はこうして時代背景の中で豊後の国境にも近く野尻日向往還、南郷矢部に至る火野尾峠越えの交通の接点となり宿場町として栄えました。
交通の要衝としてだけでなく行政、経済、文化の中心地として、細川藩独特の手永政治の坂梨手永会所(役所)や、女性の出入りには特にきびしかった街道の坂梨番所には女改の部屋があったと伝えられています。
藩主が参勤、下国の時、宿泊休憩をされる坂梨御茶屋を始め、旅人宿、酒造業、娯楽、雑貨、問屋、薬屋、医者、諸請けなど屋号持ちの店が軒を連ね大変な賑わいであったといわれています。
参勤交代制度は藩主を始め多数の供侍、沿道の住民それぞれに大きな労苦と負担をあたえましたが、文化伝達の極めて困難な時代に阿蘇地方の文化発展に多大の貢献と影響をもたらしました。
毎年反射の参勤、下国は数百千の供侍の上がり下がりの移動により江戸、京都、大阪や瀬戸内の文化、風俗ならびに産業、殖産を伝え中央政治の一緊一緩をも知ることができました。
旅人の往来もさかんで、その中には日本初の実測地図を作成した伊能忠敬、勤王の志士高山彦九郎、儒教で詩人の頼山陽、藩校時習館教授高本紫溟など多くの文人も訪れ歌や漢詩を残しています。
街道には坂梨手永会所跡、霊台橋で有名な石工卯助が架けたアーチ型の天神橋、木喰上人作子安観音像などの文化財、藩主の避難場所円通寺や浄土寺、浄行寺、妙法寺、馬場八幡宮などの寺社もみられます。
「大阪に坂なく、坂梨に坂あり」の里言で名高い滝室坂は街道一の難所として坂梨町の東端から高低差200メートルの峻坂で、すべて石畳でした。頂の坂の上から笹倉へと通じています。
街道の周辺には阿蘇谷の七鼻八石の内、妻子ヶ鼻、卯の鼻、箱石、いぼ石や古閑の滝など自然の景観にも恵まれています。
大政奉還により明治維新となり参勤交代制度が廃止され明治、大正、昭和、平成と時代は移りましたが坂梨の町並みは歴史の道「豊後街道」の宿場町として今も往時のおもかげと静かなたたずまいを色こく残しています。