投稿者「misakimichi」のアーカイブ

三川の屏風岩・薬師如来

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三川の屏風岩・薬師如来

江越先生の平成18年7月12実施、西山街道歴史散歩「大村藩殿様道A(洗切〜川平〜西山口)」資料による説明は次のとおり。

5 屏風岩・薬師如来
…三川の谷に下ると、左手に三川渓谷の番人のような大岩壁が聳え立っている。この岩壁を屏風岩とか人間岩とか言い、岩壁の根元に薬師如来のお堂があり、岩壁には薬師如来の像が彫られている。
郷村記には、この薬師如来はもともと浦上家野村の岡本というところにあったが、延宝5年(1677)にこの地に遷座したとある。なお、岩壁の如来像の近くに「元禄15年(1702)午正月 願主長崎大井手町原賀利兵衛」と刻まれているのは、この如来像が彫られたことに関するものであろう。

なお、「元禄十五年午正月 願主長崎大井手町原賀利兵衛」の刻は、如来像堂の左外の野外岩面に○をして中に刻まれている。屏風岩の右方には乳首の形をした下乳首岩があるらしいがわからなかった。
また、このお堂の登り口は、JR長崎本線「長崎トンネル斜坑入口」となっており、列車の通過音が聞こえ、冷風が来る。

東望山砲台跡 市指定史跡

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東望山砲台跡 市指定史跡

長崎市田中町にある。現地説明板は次のとおり。山頂には三角点42.3mもあった。

長崎市指定史跡 東望山砲台跡
東望山砲台は明治維新のころ(1868ころ)に設けられた最も新しい形式の砲台で、円形台座は直径3.6mである。
長崎周辺の台場跡で台座が残っているのは珍しい。大砲の形式ははっきりわからないが佐嘉藩屋敷から搬入されたという。

長崎港口神崎鼻の「神崎旧台場跡」の現況

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長崎港口神崎鼻の「神崎旧台場跡」の現況

長崎港の港口、女神の対岸となる神崎鼻の突端は、承応2年(1653)最初に築かれた「神崎旧台場」の跡となるが、明治初期からはライジングサン石油会社などの所有地(英字境標石が数本残る)となり、現在は「JF全漁連長崎油槽所」の石油タンクが建ち並び、普通は立ち入り禁止である。

長崎の幕末・明治期古写真の撮影場所探しがあり、今年の3月許可を得て中に立ち入らせてもらった。ついでに台場の遺構がないか見てまわった。なかなかお目にかからない場所なので、現況を写真によって紹介する。

小瀬戸遠見番所と中ノ番所跡・注進船係留杭

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 長崎市西部、みなと坂団地の「船の公園」内にある説明板は、次のとおり。

小瀬戸遠見番所跡

江戸時代の長崎は、わが国で唯一オランダや中国との貿易港でした。小瀬戸遠見番所は、長崎港に来航する異国船を警備するため、元禄元年(1688年)に設置されました。遠見番所のほかに中ノ番所や不寝番所も建てられ、遠見番所は平日2人が昼夜勤務しました。
異国船入港時の連絡方法は、当初「白帆注進船」と呼ばれた船でしたが、この番所の設置によって旗を掲げる方法が併用されるようになりました。野母の権現山→小瀬戸→十人町→観善寺(のちの永昌寺)の各番所にリレーされ、長崎奉行所立山役所に報告されました。
平成5年に小瀬戸番所跡の発掘調査が実施され、遠見番所跡から当時の屋根瓦や陶磁器片などが出土しました。

なお、みなと坂の中腹となる中ノ番所跡は、現在「天神天満宮」が祀られ、この古祠の右内壁に「長崎遠見番中 家内安全 御水主中」の刻みが残っている。注進船係留杭は長崎市小榊支所裏手の駐車場内に、昭和63年移転して設置されている。

野母崎変はんれい岩露出地 県指定天然記念物

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野母崎変はんれい岩露出地 県指定天然記念物

現地説明板の記事のとおり。(オリジナルのサイズの画像で見るためクリックする)

黒浜トンネル海岸側「網掛岩」から以下宿「夫婦岩」、野々串にかけて約4kmの海岸に見られる。九州最古と言われる珍しい岩の露出地である。同じものは長崎港口の鼠島(皇后島)にも見られる。

みさきの観音  脇岬の観音寺

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みさきの観音  脇岬の観音寺

長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会編「歴史散歩(42)長崎県の歴史散歩」山川出版社2005年から一部修正引用

観 音 寺(37)  国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844 長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分

長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の遠見山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者が多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から長崎半島の山などを南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道部落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄航し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵比須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。 

女神検疫所境の標石

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女神検疫所境の標石

女神検疫所は明治13年(1880)開設され、長崎港口で伝染病の予防、病人の隔離などをした。前身は「消毒所」といわれる。この検疫所の当時の敷地境界を示す標石が、国指定史跡「魚見岳台場跡」の中に5本ほど残っており、北側の女神台場跡にも1本見られる。寸法は15cm角、高さ52cm。

四建三角点・・・四郎ヶ島東側の小島

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四建三角点・・・四郎ヶ島東側の小島

神の島の突端から海道を渡ると佐賀藩が築いた「四郎ヶ島台場跡」である。西側が四郎ヶ島で、東側には2つのピークがある小島がすぐあり、この間も埋立て台場としている。
小島の左の低いピークに「長崎要塞第一地帯標 第二号」を見つけたので、念のため手前右の高いピークの方へも登ってみたら、小さな標石「四建三角点」があった。

ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため当時の建設省第四建設局が設置した三角点と思われる。