投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長田の石敢當  三股町長田 ( 宮崎県 )

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長田の石敢當  三股町長田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市街から県道33号により東へ三股町まで進む。三股町梶山小学校のすぐ先の県道沿い右側に鈴木家の屋敷がある。
長田の石敢當は、鈴木家敷地の西角に立っていたのを、県道拡幅工事があり、同家内の庭に移設し横倒しに置いてあるので、家人に断って見学する。

長田の石敢當 ながた
(北諸県)三股町 (梶山下馬場) 石敢當(砂岩) 高84㎝ 江戸初期?? 日本の石敢當p138 不詳 本当に「江戸初期」なら、国内で2番目に古い石敢當のなる可能性あり B

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」137〜139頁による記録は、次のとおり。当時の写真は138頁(写真129)にある。

大字長田梶山山下馬場2884 鈴木家の畑中に、高さ84cm、幅31cm、厚さ24〜27cmの砂岩の自然石上部に梵字、下に「石敢當」と刻されたものが立っている(写真129)。
『みまたの石造文化』(平成5年3月発行・三股郷土史研究会)には次のような解説がある。
[石塔の種類−石敢當(庚申塔婆)]この石敢当は、鈴木さん宅地の畑の中にあるが、この位置は梶山城大手口に通ずる三叉路の位置にあたる。種子ボロンは、諸仏一切結合の種子である。石敢当は他町村などにも多くあるが、ボロンの種子を刻出したものは他に発見されていない。貴重な庶民の文化遺産である。この石敢当は庚申信仰の衆中によって造立されたものである。都城盆地内唯一のものである。造立年は不明なるも江戸後期と推定。…(以下、省略)

乙房町の石敢當  都城市乙房町 ( 宮崎県 )

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乙房町の石敢當  都城市乙房町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR西都城駅前交差点から県道31号により北西へ進む。庄内川に出る手前、庄内橋南交差点から県道108号へ右折。この付近が乙房町である。
乙房平田地区2948という番地は、2つ目角先の右側。蔵満家前三叉路突き当たり県道路傍に「石敢當」にあると記している。写真のとおり写真スタジオができたが、現在は廃業し空き店舗。県道に面した路傍に「石敢當」は見当たらない。
裏が蔵満家の屋敷のようだが、ここも空き家。庭を覗いても「石敢當」は見当たらない。近所で聞き込みをしたが、子は都城市街に住んでいるらしく、これ以上の手がかりはなかった。
坂を下って消防分団倉庫前(近くに町区自治公民館がある)石垣角に立っていたのは、「水神」だった。

乙房町の石敢當 おとぼう
都城市 石敢當(凝灰岩) 高22㎝,幅35㎝,厚8㎝ 弘化2(1845) 日本の石敢當p124/市教委(都城市史) –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」124〜125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は掲載なし。

たとえば、乙房平田地区2948 蔵満家前三叉路突き当たり県道路傍に「石敢當」と刻した高さ22cm、幅35cm、厚さ8cmの頭丸味の凝灰岩の端整な碣がある。弘化2年(1845)造立というが、造立年銘はない。

祝吉町の石敢當  都城市祝吉町 ( 宮崎県 )

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祝吉町の石敢當  都城市祝吉町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR都城駅前交差点から国道
269号により北東に進む。都城農業高校前を過ぎると、次に祝吉五差路交差点がある。
祝吉町地区6521という地番はもうない。6500番が「美容室 ビューティーサロン クラヤ」である。この付近で、国道の対面側も含め長友家と石敢當の聞き込みをしたが、手がかりがなかった。

祝吉町の石敢當 いわよし
都城市 石敢當(自然石、凝灰岩) 高33㎝,幅20㎝,厚8㎝ 安政3(1856) 日本の石敢當p125 不詳 –

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は掲載なし。

祝吉町地区6521 長友家隣屋敷畑T字路突き当たりブロック囲中に(昭和61年区画整理以前は、細い曲り道で三叉路突き当たりの路傍にあった)「石敢當」と刻字した、高さ33cm、幅20cm、厚さ8cmの凝灰岩の自然石がある。安政3年(1856)の造立というが、造立年銘はない。

姫城町の石敢當  都城市姫城町 ( 宮崎県 )

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姫城町の石敢當  都城市姫城町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。姫城町17街区姫城自治公民館は、都城市庁舎南別館左の狭い車道に入ると、途中に姫城公民館入口への案内標識がある。姫城山児童公園の下が公民館である。
現地を訪ねて公民館付近を探したが、写真の高さ106cmという石敢當は見当たらない。移設したのか、都城市教育委員会文化財課に現地からすぐ電話して依頼したが、まだ返答がない。

姫城町の石敢當 ひめぎ
都城市 姫城公民館・前 石敢當 高106㎝,幅19㎝,厚16㎝ 安政5(1858) 日本の石敢當p.125/市教委(平成6 古石塔類調査票) 移設 (正面)「石三石敢當」/安政5かどうか不確定 2 C

2004年発行「民族信仰 日本の石敢當」125頁による記録は、次のとおり。当時の写真は126頁から。

石三 石敢當  □年三月 (二面に石敢當の刻字)
姫城町17街区姫城自治公民館 (安政年間造立という。碑面に「□午」とあり、安政五年が「戌午」にあたる)
106cm×19cm×16cm

ふるさとの名木 クス並木  都城市姫城町市役所そば ( 宮崎県 )

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ふるさとの名木 クス並木  都城市姫城町市役所そば

HP「ぴこねっと日本ねっ島」名所旧跡 宮崎県 都城市による説明は、次のとおり。

ふるさとの名木 クス並木

このクス並木は、明治41年(1908)都城尋常小学校女子部の第1回の卒業生が記念植樹したものです。
14本の老木は今なお健在で市民に爽やかな季節感と夏の木陰を提供しています。明治末に植えられたクスの木が旺盛な姿を見せているのは類例も少ないそうです。貴重な文化財として保護されています。樹高20メートル、、胸高周囲4メートル30、根回り4メートル50。推定樹齢99年です。素晴らしい姿だと思います。
都城市教育委員会文化財課

外浦砲台・跡  日南市南郷町贄波 ( 宮崎県 )

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外浦砲台・跡  日南市南郷町贄波

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR日南線南郷駅前交差点から国道448号に入り、外浦港沿いに南下する。港口に贄波集落があり、贄波バス停から防波堤へ出るあたりが、外浦砲台・跡のようである。

昭和55年発行「南郷町郷土史」105頁の「外浦砲台の跡」記録と写真は、上のとおり。砲台跡の石垣は、今は長い海岸護岸の防波堤が造られ、はっきり確認できないが、バス停右の転回所隣の駐車場奥の石垣に延長としてそれらしきものは残っていた。

外浦砲台・跡 とのうら
日南市 南郷町贄波 台場(石塁) 元治元(1864) 市教委 バスの転回所に残る石垣か? 文政8(1825)に異国船打払令が出され、沿岸の警固を強化するため大砲4門を設置した 5 C

松田堤・跡  日南市南郷町中村乙 ( 宮崎県 )

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松田堤・跡  日南市南郷町中村乙

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。JR日南線南郷駅前先の交差点から県道438号に入る。約1kmほど行った県道がカーブするところに製茶店があり、手前竹藪角に「松田堤跡」の白い標柱が立つ。
北東にまっすぐな市道が伸び、この市道が天端を道路化した松田堤・跡で、潮屋権現の森の伍社神社が奥にある。

松田堤・跡 まつだ
日南市 南郷町中村乙 土堤防 長640m 慶安3(1650) 市教委 天端を道路化(アスファルト舗装) 地元の松田理右衛門の建議で、脇元村界・尾崎〜潮屋権現の森、潮屋権現〜天ノ越の岡麓の間に築いた埋立堤/松田堤の名は松田理右衛門に由来 2 B

山仮屋の水汲場  日南市北郷町北河内 ( 宮崎県 )

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山仮屋の水汲場  日南市北郷町北河内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。私は宮崎市清武町から県道27号により椿山峠を越して行った。山仮屋集落に入って少し先の県道沿いに「歴史の道 飫肥街道」山仮屋関所跡まで約10分程度の案内板がある。
山仮屋の水汲場は、山仮屋関所跡のイチイガシの古木近くにあるらしいが、標識からの山道が荒れて訪ねなかった。水汲場資料・画像の提供は、日向市教育委員会生涯学習課文化財係である。山仮屋関所跡は旧街道の上手沿いに農道があり、上から下られると聞いた。
後ろの写真は、私が集落内県道で見た生活用水。これらが上の水汲場から引いているのだろうか。

山仮屋の水汲場 やまがりや
日南市 (山仮屋)<飫肥街道> 湧水 江戸期? 生活用水として現役利用 1 C

山仮屋隧道  日南市北郷町北河内 ( 宮崎県 )

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山仮屋隧道  日南市北郷町北河内

現地説明板は、次のとおり。私は宮崎市清武町から県道27号により椿山峠を越して行った。山仮屋集落の少し手前の県道脇に案内板があるので、廃線となっている旧県道(トンネルは通行禁止)に入る。 

県指定有形文化財 (平成10年10月22日指定)  山仮屋隧道

山仮屋隧道は県内初の道路トンネルである。このトンネルは、宮崎飫肥間を結ぶ県道(現在の県道宮崎北郷線)の開設に伴い建設された。宮崎清武間の開通は明治20年頃で、明治23年には山仮屋への道路開削が始まった。宮崎山仮屋間の県道開通は明治25年である。
一方、飫肥山仮屋間も明治25年に一部を残してほぼ開通しており、明治27年頃には宮崎飫肥間の全線が開通している。山仮屋随道の工事は明治24年に着工し、翌年の明治25年に完成している。
トンネル内部の覆工には、大阪の堺から取り寄せた良質の煉瓦が使用されており、側壁部にはイギリス式の手法、アーチ部には長手積みの手法が採用されている。これらの技術は当時の最先端の土木技術であり、貴重な資料である。トンネルは内部の高さが約4.3m、トンネル幅約4.8m、道路幅員約3.8m、長さが約56mである。
山仮屋随道が建設された時期は、ちょうど人力車や客馬車が各地に普及し交通機関としての重要性が増してきた時期であり、近代日本の交通事情の変革期であった。宮崎飫肥間の県道開設とそれに伴う山仮屋随道の建設は、それまでの既存の交通体系の変革という意味において、近代日本の交通史を考える上で重要な意味を持つものである

勢田峠の切通し  宮崎市清武町木原ー鏡洲 ( 宮崎県 )

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勢田峠の切通し  宮崎市清武町木原ー鏡洲

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。リストは当初「日南市」で整理されていた。日南市教育委員会生涯学習課文化財係で入手した「歴史の道 飫肥街道」資料(旧北郷町発行か)によると、「勢田峠」は宮崎市清武町木原ー鏡洲間の飫肥街道の旧街道にある峠が正である。
日南市役所まで来て、今更、宮崎市へ戻る時間の余裕がなく、勢田峠の現地調査は省略した。資料のみ載せる。そのうち再訪したい。県道27号の鏡洲峠(旧県道の鏡洲峠を「勢田峠」と説明するHPもある)や鏡洲小学校前は、通ってきている(写真3,4)。

勢田峠の切通し せた
宮崎市 <飫肥街道> 切通し 江戸期? 歴史の道百選 当時のまま 清武川〜加江田川間の丘陵を横断する山道の頂部 1 C

(2016年9月19日 追 記)

2016年8月9日に再訪したときは、清武町側「県立みなみのかぜ支援学校」横を行き、街道道がわからず強引に谷間を上がった。尾根道と合い左上に登り、岩穴2つがある峠と思われるところを調査したが、勢田峠の状景写真と違う。岩穴は戦時中の高射砲陣地の防空壕と地元で聞いた(写真5〜7)。

その後、宮崎市きよたけ歴史館に照会。「前田博仁氏が、鉱脈社から出された「飫肥街道」の関係頁や、近年、宮崎市木花のまちづくり推進委員会里山部会が飫肥街道の地図を作成されまして、その中にも写真や地図がありました」ということで、資料を入手した。
勢田峠は、「竹ノ内(宮崎市)−勢田(清武町)間、標高77mの峠」。地図と竹ノ内側「丸野勢田峠入口」写真があった(写真8〜11)。竹ノ内側からが却ってわかりやすいと判断した。

奄美大島の帰り2016年9月10日朝に宮崎市を再び訪問。資料写真の竹ノ内側「丸野勢田峠入口」を確認した。県道339号の「第二竹の内橋」先、星叶バス停から集落奥の渡辺宅まで進む。車庫右横の広い山道。ここが資料写真の場所で、「丸野勢田峠入口」であった。
150mほどの所で広い山道はL状急カーブするので、広い山道を外れ直進して藪内を探す(写真15地点)と踏跡がある。先は明瞭な街道の旧道で、杉の大木があるところを登り縁石を見ながら、やがて鞍部の峠に出る。
飫肥街道「勢田峠」の状景写真と合う。勢田峠の切通しがあった(写真12〜21)。最後の写真は、清武側から見た勢田峠の尾根。