投稿者「misakimichi」のアーカイブ

学丸の奇岩群  龍郷町赤尾木・手広 ( 鹿児島県 )

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学丸海岸の奇岩群  龍郷町赤尾木・手広

龍郷町教育委員会編「文化財が語るふるさとの歴史 —龍郷町の文化財ガイドブック—」昭和25年発行の77〜78頁による説明は、資料のとおり。学丸は赤尾木の小字名。琉球石灰岩が波に侵食されて、不思議な景観を生み出している。

龍郷町役場から国道58号を北東へ進む。屋入トンネルを出て、赤尾木まで下る途中に、「手広海岸⇒」の案内板があるので右折。すぐ次の広い町道に左折して無線塔が真横に見えるあたりまで進む。角の農道に入って海岸の方へ向かうと、行き止まりに史跡案内板があった。これから山道を下ると、学丸海岸の奇岩群のところに出る。マップ参照。手広海岸からは、砂浜を左に20分ほど歩いて行く。

奄美クレーター  龍郷町赤尾木 ( 鹿児島県 )

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奄美クレーター  龍郷町赤尾木

龍郷町HPによる説明は、次のとおり。龍郷町赤尾木から国道58号を北東へしばらく進むと、東屋広場の駐車場があり、ここが赤尾木湾の展望所か。「奄美クレーター」の説明板があった。

奄美クレーター
「昭和45年に鹿児島ラサール高校教諭らの調査結果として、赤尾木湾は隕石孔であるとの確信で、奄美クレータと命名された。」(龍郷町誌より)
赤尾木湾はこの丸い形状から、隕石が落ちて形成されたと言う説があります。
しかし、周囲の地質等から隕石孔を否定する説もあり、それによると、大昔は海で隔てられていた龍郷と笠利が、長い年月のうちに海流によって砂が運ばれて繋がったものだと言われています。
いずれにしろ、自然が造り出す不思議な風景に魅了されます。

前肥田のガジュマル並木  奄美市笠利町喜瀬 ( 鹿児島県 )

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前肥田のガジュマル並木  奄美市笠利町喜瀬

現地説明板は、次のとおり。奄美市の北東部、赤尾木から国道58号により進む。笠利町手花部手前の交差点から左折、崎原ビーチの方へ笠利湾沿いに向かうと、途中の前肥田公民館先に案内板がある。

ガジュマル並木
奄美一と言われるガジュマル並木は、今から100年程前に畑や家畜を守るための防風林として植樹したもので、奄美市一集落一ブランドでもある。奄美大島の海岸線はこのような風景が当たり前であったが、最近では大分少なくなり、この並木かが「奄美一」とまで称されるようになった。

手花部の潮垣(シュガキ、マシャンキリ)  奄美市笠利町手花部 ( 鹿児島県 )

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手花部の潮垣(シュガキ、マシャンキリ)  奄美市笠利町手花部

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美市の北東部、国道58号により笠利町赤木名へ向かう。この手前、笠利湾の奥に手花部海岸があり、同バス停のところに手花部子供会作成の説明板がある。

手花部の潮垣(シュガキ、マシャンキリ) てけぶ
奄美市(奄美大島) 笠利湾・奥 魚垣 半径約100m,高約60㎝ 江戸期 WEB(みさき道人)/笠利町歴史民俗資料館/現地解説板 平成7に手花部小学校の文化財少年団らにより補強 どこから伝わったかは不明 2 B

笠利町歴史民俗資料館編「郷土は博物館 —家族で訪ねる奄美・笠利町の文化財—」2003年発行の100頁による説明は、資料のとおり。

笠利町里の碇石  奄美市笠利町里 ( 鹿児島県 )

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笠利町里の碇石  奄美市笠利町里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美市の北東部、国道58号により笠利町赤木名へ向かう。県道601号に右折、すぐの赤木名中学校裏手が「国指定史跡赤木名城跡」である。観音寺開山記念碑(開山和尚墓碑)に転用された碇石も、ここにあるので校庭右端から回って行く。

笠利町里の碇石 かさり、さと
奄美市(奄美大島) 赤木名観音寺跡 碇石(アルコース) 長110㎝ 中世(10-14世紀) WEB(みさき道人) /WEB 観音寺開山記念碑に転用 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ/アルコースは、花崗岩が風化・侵食作用を受け分解した後に二次堆積したもの 4 –

大島代官所・跡の石塀(大島仮屋)  奄美市笠利町里 ( 鹿児島県 )

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大島代官所・跡の石塀(大島仮屋)  奄美市笠利町里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美市の北東部、国道58号により笠利町赤木名に行く。県道601号に左折、すぐのENEOS赤木GSから旧道に左折すると、石塀がある一角の空き地と民家があり、ここが「大島代官所(仮屋)・跡」である。
石塀は、高さ1m、幅1m、長さ28mほどが残っていた。

大島代官所・跡の石塀(大島仮屋) おおしま
奄美市(奄美大島) 笠利町里〔赤木名〕<大島代官所> 石塀(積層積、珊瑚) 長約28m,高約1m,幅約1m 寛永10(1633)以降 市史跡 WEB(みさき道人) /WEB 石塀のみ残る/部分的に崩壊 覇権役人の名称が代官に変わるのは、有馬丹後純定が寛永10(1633)に赴任してからで(『有馬丹後純定大嶋附肝属表代官相勤覚』による)、それに伴い奉行所から代官所になる→場所も笠利から移されるが、島内を転々とした→いつ赤木間に設けられたかは資料により異なる/奄美大島特有の珊瑚の積層積の石塀 2 C

笠利町屋仁の碇石  奄美市笠利町屋仁 ( 鹿児島県 )

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笠利町屋仁の碇石  奄美市笠利町屋仁

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。奄美空港から県道601号に入り、島の北端を回り込むと笠利町屋仁に着く。この碇石は、屋仁小学校の校庭にベンチとして残る。

笠利町屋仁の碇石 かさり、やに
奄美市(奄美大島) 屋仁小学校・校庭 碇石(花崗岩) 長148㎝ 中世(10-14世紀) WEB(みさき道人) /WEB ベンチに転用/座席にあたる部分がつるつるに→碇石らしさなし 九州と沖縄を結ぶ交易の拠点であったことを示す遺産の一つ/宋・元時代の中国船の石製イカリ 4 –

大島奉行所・跡の石塀  奄美市笠利町笠利 ( 鹿児島県 )

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大島奉行所・跡の石塀  奄美市笠利町笠利

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによる説明は、次のとおり。奄美空港から県道601号を北へ進む。小高い丘のカトリック大笠利教会を過ぎ、県道からすぐ右手笠利集落へ下る坂の小道に入る。少し下って右に入ったところが「大島奉行所跡」である。

大島奉行所・跡の石塀 おおしま
奄美市(奄美大島) 笠利町笠利 <大島奉行所> 石塀 (積層積、珊瑚) 慶長18(1613) 市史跡 WEB(みさき道人) /WEB 石塀のみ残る/保存状態良好 奄美大島が薩摩藩の統治となり、最初に、法元仁右衛門が慶長15(1610)に奉行として赴任した際に、笠利に設けられた奉行所(『大島代官記』による)の石塀/奄美大島特有の珊瑚の積層積の石塀 2 B

現地説明板は、次のとおり。

大島奉行所跡  昭和46年町指定文化財  笠利町笠利
琉球王朝から薩摩藩の直轄地となって大島全体の行政機構がここに置かれた。慶長18年(1613年)寛永10年(1635年)の22年間大島統治の拠点となった。現在は石垣だけがその名残りをとどめている。
■■■教育委員会・笠利町歴史民俗資料館

ばしゃ山の枕状溶岩  奄美市笠利町用安 ( 鹿児島県 )

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ばしゃ山の枕状溶岩  奄美市笠利町用安

ブログ「鹿児島の自然と食」による記事の説明は、次のとおり。奄美市の北東部、赤尾木から県道82号に入る。笠利町に「ばしゃ山」というリゾート地があり、その近くの県道脇にある。白い史跡標柱がフェンス端に立っている。

奄美の枕状溶岩  2010-12-28 | 風景
奄美大島にある枕状溶岩を紹介します。
奄美空港から名瀬に向かうと、奄美市笠利町に、ばしゃ山というリゾート地があり、その近くの県道脇にあります。 
枕状溶岩は、マグマが海底に流れ出て、急に冷やされたために出来たものです。俵状溶岩とも言います。
溶岩といえば、桜島の溶岩のようにゴツゴツしたものが多いですが、枕あるいは俵を積んだような丸い溶岩です。
奄美大島は堆積岩からなる島で、溶岩はほとんどありませんが、それが枕状溶岩という珍しい溶岩です。
左(枕状溶岩)と右で、岩の形が違うのがわかると思います。右隣の岩は、奄美大島本来の堆積岩です。

神ノ子の石ウシュキ  奄美市笠利町用安 ( 鹿児島県 )

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神ノ子の石ウシュキ  奄美市笠利町用安

笠利町歴史民俗博物館編「郷土は博物館 —家族で訪ねる奄美・笠利町の文化財—」2003年発行の94頁による説明は、資料のとおり。この資料は、奄美市笠利総合支所からもらったが、「石ウシュキ」とは、石を置くとの意味があると聞いた。
奄美市の北東部、赤尾木からの県道82号が笠利町用安に入ると、海の駅レストラン ひわきがある。この前の海岸の大きな岩が、「石ウシュキ」と呼ばれ、白い史跡標柱が県道の海岸側に立っている。神の子バス停の手前となる。