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由良要塞大谷川下軍橋  兵庫県洲本市由良町由良

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由良要塞大谷川下軍橋  兵庫県洲本市由良町由良

淡路地域ビジョン社会基盤分科会HP「淡路島近代化遺産マップ」による説明は、次ののとおり。
県道76号で由良町の中心を過ぎ、由良中学校前は左折。しばらく行くと「生石公園」への案内標識がある。公園の方へ向かうと、この幅員5mほどの軍道橋が残る。 

淡路島近代化遺産 6 由良要塞大谷川下軍橋

■ 基礎データ
名 称:成山台場(由良要塞大谷川下軍橋が正)
分 野:軍事施設
所在地:洲本市由良町成ヶ島(由良町由良が正)
設計者: −
構 造:レンガ造り
竣工年:明治27(1894)年〜明治34(1901)の間

■ 概要説明
由良の町には要塞化に伴い道が整備された。現在も道路橋及び歩道として使用されている9つの単径間の煉瓦拱橋がある。由良市街地の背後を通る旧由良軍道、海岸線に近い県道から生石山砲台へ向かう市道にかけて、そして由良市街地の南西端から伊張山堡塁・赤松山堡塁へ向かってのびる谷筋の市道(旧伊張山軍道)にそれぞれ3橋の存在が知られている。築造当初の姿を良好に留める婦野谷2号橋や大谷川下軍橋の上部構造、低い親柱をもち、笠石を地覆石としたものである。これら9橋の竣工年代については、管理台帳の一部に昭和3年、18年という記述がみられるものの、位置・構造から判断して、明治27年(1894)年の重砲兵連隊の創設以降、明治34(1901)年の生石山第5砲台備砲までの間に、重量物の運搬等に耐える橋として整備され、由良要塞諸施設の維持を支えた橋梁と考えるのが自然であろう。

なお、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」兵庫県の石橋によるデータは、次のとおり。

№5,550 大谷川下軍橋
洲本市由良町由良
橋幅:m  径間:5.0m  拱矢:m
下流側高欄に橋名が刻んであります。

小佐毘火薬庫石橋  兵庫県洲本市由良町由良

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小佐毘火薬庫石橋  兵庫県洲本市由良町由良

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」兵庫県の石橋によるデータは、次のとおり。
県道76号で由良町中心を過ぎ、由良中学校前は左折。生石公園の方へ向かう途中に小佐毘(こさび)バス停があり、小佐毘川橋から佐毘川左岸沿いに約350m車道行き止まりまで行き、あとは徒歩で進む。
前記事の小佐毘火薬庫レンガ橋から佐毘川をさらに約100m、荒れた果樹園平地の先へ進むと、小佐毘火薬庫石橋がある。

№6,617 小佐毘火薬庫石橋
洲本市由良町由良
佐毘(さび)川
橋幅:1.42m  径間:2.7m  拱矢:0.5m  環厚:37㎝  輪石:13列
小佐毘火薬庫レンガ橋から佐毘川を右手に見ながら約100m進むと第二の目標物が見えてきました。

小佐毘火薬庫レンガ橋  兵庫県洲本市由良町由良

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小佐毘火薬庫レンガ橋  兵庫県洲本市由良町由良

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」兵庫県の石橋によるデータは、次のとおり。
県道76号で由良町中心を過ぎ、由良中学校前は左折。生石公園の方へ向かう途中に小佐毘(こさび)バス停があり、小佐毘川橋から佐毘川左岸沿いに約350m車道行き止まりまで行き、あとは徒歩で進む。

№6,616 小佐毘火薬庫レンガ橋
洲本市由良町由良
佐毘川
橋幅:m  径間:2.5m  拱矢:0.55m
県道76号線、小佐毘川橋(レンガ)から佐毘川左岸沿いに約350m車で進入し、あとは徒歩で進みます。
約100m進むと、左手に池が見えます。「陸」と刻まれた標柱。
石積みの廃墟を過ぎ、約180m進むと目標物が見えてきました。

小佐毘川橋  兵庫県洲本市由良町由良

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小佐毘川橋  兵庫県洲本市由良町由良

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」兵庫県の石橋によるデータは、次のとおり。
県道76号で由良町中心を過ぎ、由良中学校前は左折。生石公園の方へ向かう途中に小佐毘(こさび)バス停があり、ここの川に架かる橋が小佐毘川橋である。付近に「陸」の標石があった。

№5,549 小佐毘(こさび)川橋
洲本市由良町由良
佐毘(さび)川
橋幅:4.8m  径間:4.0m  拱矢:1.0m

宮 川 橋  兵庫県洲本市由良町由良

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宮 川 橋  兵庫県洲本市由良町由良

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」兵庫県の石橋によるデータは、次のとおり。
県道76号で洲本市由良支所手前まで行き、由良湊神社から由良小学校・由良保育所の方へ上がって右(左は長谷川橋へ)の車道を進むと、宮川橋がある。心蓮寺墓地の上側となる。

№5,544 宮川橋
洲本市由良町由良
橋幅:3.9m  径間:4.8m  拱矢:1.7m
由良要塞は大日本帝国陸軍の要塞の一つ、大阪湾防衛の目的で造られ、それに伴い整備された軍道には煉瓦アーチが9基かかっているとのこと。
その煉瓦アーチの探索は今回の大きな目的の一つでした。
まず最初の地点、ここでしょうか?

長谷川橋  兵庫県洲本市由良町由良

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長谷川橋  兵庫県洲本市由良町由良

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」兵庫県の石橋によるデータは、次のとおり。
県道76号で洲本市由良支所手前まで行き、由良湊神社から由良小学校・由良保育所の方へ上がって左(右は宮川橋へ)の車道を進むと、寺谷川砂防堰堤の下流に長谷川橋がある。

№5,545 長谷川橋
洲本市由良3丁目
寺谷川
橋幅:4.05m  径間:2.0m  拱矢:1.0m

心蓮寺門前橋  兵庫県洲本市由良町由良

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心蓮寺門前橋  兵庫県洲本市由良町由良

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」兵庫県の石橋によるデータは、次のとおり。
県道76号で洲本市由良支所手前まで行き、由良湊神社の方へ入ると、神社横に心蓮寺がある。3枚目は由良湊神社。

№6,610 心蓮寺門前橋
洲本市由良3丁目5
橋長:4.8m  橋幅:2.8m  桁列  
単径間桁橋

成 ヶ 島  兵庫県洲本市由良町成ヶ島

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成 ヶ 島  兵庫県洲本市由良町成ヶ島

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
県道76号で「由良支所前」まで行く。対岸にあるのが成ヶ島。渡船で渡る。

成 ヶ 島

成ヶ島(なるがしま)は、兵庫県洲本市由良町由良の東側の紀淡海峡に、南北約2.5kmにわたって砂州が伸びる細長い島。瀬戸内海国立公園の一部。淡路橋立とも呼ばれる[1] 。

概要
成ヶ島は北端の新川口と南端の今川口の水路で淡路島から約100m離れている。由良港から渡し船があり約2分で島に連絡している。島の西側の由良湾内ではハマチの養殖が行われ、春には潮干狩りでアサリなどが採取できる。

北端の成山の東の紀淡海峡側には成ヶ島海水浴場があり、南端の高碕には髙埼灯台がある。また明治29年(1896年)に開設された由良要塞の砲台跡が成山にわずかに残っている。

地形・自然
北の成山(標高52m)と南の高埼(標高23m)はもともと陸繋島で、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり [2] 、ラグーンである由良湾の湾口は成山と高埼の間で開いていた。南北両端の水路開削と旧来の湾口を閉鎖して成ヶ島は現在の沿岸州になった。この成ヶ島の面積は約39ha、海岸線の長さは約6.4kmあるが [3] 、成山と高埼の間の最狭部は護岸を含めても25mほどしかない。

成ヶ島の西側には干潟が広がり、砂州や干潟沿いに希少な海浜植物が自生し、ハクセンシオマネキなどの希少動物も生息している。

ハクセンシオマネキ – カニの一種。環境省レッドリスト(2007) 絶滅危惧II類(VU)
ハマボウ – アオイ科の樹高3mほどの落葉低木。兵庫県版レッドデータブック(2003) Aランク 絶滅危惧I類[4]
ハマウツボ – 寄生植物。兵庫県版レッドデータブック(2003) Aランク 絶滅危惧I類[4]
ハママツナ – アカザ科の一年草。潮間帯に見られる。兵庫県版レッドデータブック(2003) Cランク 準絶滅危惧種[4]
アカウミガメ – 紀淡海峡側から上陸して砂地に産卵するのが見られる。
瀬戸内海国立公園の第2種特別地域に指定されていて、これらの貴重な生態系と自然景観の保全を図るため

砂州の侵食を防止するための護岸堤の整備
「成ヶ島クリーン作戦」- 地域住民らが行っている漂着ゴミなどの回収清掃[5]
海岸利用者へのマナー啓発
などが行われている[6]。

歴史
慶長16年(1610年)、池田忠雄が洲本城を廃し、由良成山城を修築した(水軍城)。寛永12年(1635年)、蜂須賀至鎮が由良成山城を廃し、再び洲本城へ移した。「由良引け」[7]
寛永から明和年間にかけて、北側の新川口と南側の今川口が切り開かれ、旧湾口が閉じられて現在の姿になった[8]。
明治29年(1896年)、由良要塞が開設され成山第一砲台、成山第二砲台、高碕砲台が設置された。大正13年(1924年)に要塞の整理により廃止。
昭和61年(1986年)、国民宿舎「成山荘」が閉鎖。

交通アクセス
由良港から成ヶ島へは渡船で約2分。由良町中央漁業協同組合成ヶ島渡船事務所[9][1]、兵庫県道76号洲本灘賀集線

洲本城跡  兵庫県洲本市小路谷(三熊山)・山手1丁目

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洲本城跡  兵庫県洲本市小路谷(三熊山)・山手1丁目

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
三熊山ドライブウェイを使うと、車ですぐ山頂の洲本城跡まで行ける。

洲本城
洲本城(すもとじょう)は、淡路国津名郡、現在の兵庫県洲本市にある城。別名三熊城。国の史跡に指定されている。

沿革
1526年(大永6年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城した。治興の後は養子安宅冬康(三好長慶弟)、冬康死後は長男信康、二男清康へ受け継がれ、1581年(天正9年)の淡路討伐の際、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられた。しかし、秀久は九州征伐の際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となり、天守が造営されるとともに、石垣の大改修の際、倭城での経験から「登り石垣」が築かれた。

江戸時代になり、姫路城主池田輝政の三男忠雄が領主になった際に廃城となり、まず岩屋城、次に由良成山城に居城する。これは関ヶ原の戦い以降も、豊臣方大名の動きを牽制するために、徳川家と縁戚関係にある池田氏(忠雄の正室は徳川家康の孫)に播磨灘と大坂湾一帯を防衛させるためとされる。

大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城代となるが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移した。この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。 現在は曲輪、池、石段、石垣、櫓跡などが残る。天守台からの眺望「大浜を大観」と三熊山東側展望台からの「マリーナを展望」は洲本八景の1、2に選ばれている。

現在ある模擬天守は、1928年(昭和3年)に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して、鉄筋コンクリート製で築造されたもので、江戸時代の天守を復元したものではないが模擬天守としては日本最古のものである。

「由良引け」以降に築かれ、明治まで続いた「下の城」とは史跡としては全く別の時代のものと考えられ、「上の城」と分類 されている。

上の城は1999年(平成11年)1月14日、国の史跡に指定され、下の城も洲本市の史跡に指定されている。 下の城の跡地にはかつての洲本城(上の城)に関する資料を展示する洲本市立淡路文化史料館などがある。

近年、石垣のライトアップや周辺の樹木の伐採を行うなど整備が行われているが、2011年(平成23年)3月はじめに模擬天守の壁面にひび割れが見つかり、補修工事を行うことになったため模擬天守への立ち入りは禁止されている[1][2]。

概要
城郭遺構地域面積 – 278,459.9 m²
所在地 山上 -兵庫県洲本市小路谷(三熊山) 山下 -兵庫県洲本市山手一丁目

現存建物
下の城の迎賓館として建てられた金天閣が、明治初めには、淡路高等女学校(現在の兵庫県立洲本高等学校)に移築されて作法室として使用され、 その後洲本八幡神社境内に移築されている。(兵庫県指定文化財建造物 )

金 天 閣  兵庫県洲本市山手2丁目

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金 天 閣  兵庫県洲本市山手2丁目

洲本市HPによる説明は、次のとおり。洲本バスセンターから徒歩5分。

金天閣(きんてんかく)
■名   称  金天閣
■指定種目  県指定 重要有形文化財
■指定年月日  昭和59年3月28日
■文化財種類  建造物
■時   代  江戸時代
■所 在 地  洲本市山手二丁目甲785
■所 有 者  洲本八幡神社
■管 理 者  洲本八幡神社
■概   要
寛永18年(1641年)に徳島藩主蜂須賀忠英(ただてる)が、三熊山山麓の洲本城内に建てた洲本御殿の一部です。洲本御殿の大部分は明治維新後に取り壊されましたが、この玄関と書院だけが移築され残りました。
現在は、金天閣として洲本八幡神社の境内にあります。