波佐見町に残るアーチ石橋(2)  東彼杵郡波佐見町

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波佐見町に残るアーチ石橋(2)  東彼杵郡波佐見町

東彼杵郡波佐見町に残るアーチ石橋は、15橋である。ただし、飛瀬の水路橋は石造アーチ橋としてカウントしない。5橋ずつで3項に分けた。
なお、9の池は地元では「本谷池」(ほんだいんいけ)と言っていた。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  6  第 159 番  田別当のレンガ造橋   波佐見町湯無田郷(田別当川)
明治末期〜昭和初期      長さ 7.0m  幅員 2.5m
波佐見町に多いブロック状にカットしたレンガを上部に使用した橋。
田別当川沿いに入って左手に高速の架橋が見えてきたら、道路右手に注意。
〜県の河川課川内係長の情報で波佐見町文化財保護係の坂本氏から教えていただいた。

写真  7  第  77 番  清 流 橋(鬼木橋・第二谷源志橋)  波佐見町鬼木郷
大正末期             長さ 約6m  幅員 約1.5m
川ばかり探して見つけられなかったら、こんなところに移築されていた。

「大正末期、大鬼木川下流(元鬼木公民館前)に田中久太郎氏により築かれていた石橋は幾度の大水害にも耐えていたが平成2(1990)年7月2日発生の大水害による河川の災害復旧工事に伴い解体を余儀なくされ保存されることとなり平成4(1992)年久太郎氏の孫、福島正美氏の手で復元される。欄干、階段の部分は昭和12年久太郎氏の長男、要次郎氏により築かれた湯無田橋の一部であり、鬼木の清流の差とのイメージから清流橋と命名。第十二代波佐見町長松尾常盤氏の直筆を福島正美氏が彫刻したものである。」 〜鬼木郷説明板から〜

旧道に架かっていた時は、地元からは鬼木橋と呼ばれ、正式には第二谷源志橋と言ったそうだ。また(第一)谷源志橋は、巨石積みの石橋と一部に紹介されていたが、実際には木橋であって、第二谷源志橋と混同されていたとの事のようです。山口係長自体が石橋にも関心をもっていらっしゃるようで、丁寧に教えていただいた。感謝。
〜波佐見町教育委員会社会教育課山口係長から教えていただいた。

写真  8  第 157 番  知 見 寺 橋     波佐見町金屋郷(知見寺川)
明治末期〜昭和初期      長さ 7.0m  幅員 3.0m(現在は拡幅)
石造アーチで1mほど拡幅され、さらにコンクリートで拡幅されている。
金屋郷の入り口にある、金屋神社の大鳥居を潜って川沿いに左折する。やや走って右手に金屋下〆郷集会場の手前になる。
〜県の河川課川内係長の情報で波佐見町文化財保護係の坂本氏から教えていただいた。

写真  9  第 174 番  狸山の橋(本谷池下の橋)  波佐見町村木郷の本谷池下
明治期から昭和初期      長さ 4.5m  幅員 1.9m 
畑の原窯跡から道なりに登り、二股を右手に入って本谷池(ほんだいんいけ)に向かう。
1986年に波佐見町が調査した資料を基に、再度現地を歩いて出会えた橋。4年前には消失してしまったと早合点していたのだが、諦めきれずに捜し歩いた。
拱環厚25センチのしっかりとした輪石の状態は良い。コンクリートで拡幅されて現状は有効部分2.5mの橋として現役で働いている。

再確認したところ狸山下池下の橋は、過去には有ったけれども、既になくなっていて、調査時に名前が混乱したものだろうとの事でした。だだ、現在でもこの橋を狸山の橋と呼ぶ方が多いそうですので、両方の名前を併記することとしました。

写真 10  第  95 番  不 動 佐 橋       波佐見町村木郷
明治時代(推定)        長さ 約4.0m 幅員 約4.5m
畑ノ原窯跡に至る途中にある。畑の原窯跡に向かう途中に、「不動佐会館」という右の写真の赤屋根の建物がある。その手前右側の住宅の手前に架かっていた。橋の上流側には石組みの堰があり、これも楽しめる。
また、この橋は途中で拡幅されたが、拡幅もまた石造アーチ橋であり並列された二基の石橋が一体となって使用されていた珍しい石橋だ。
〜波佐見町教育委員会社会教育課山口係長から教えていただいた。