長崎街道の藩境石  日見烏合場・中里役の行者神社・古賀庄屋屋敷跡

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長崎街道の藩境石  日見烏合場・中里役の行者神社・古賀庄屋屋敷跡

長崎街道は、長崎から小倉まで57里(228km)の道のりである。日見峠を越して市東部を行く天領・大村領・佐賀領が入り混じった長崎街道沿いに藩境石は多い。

日見・矢上境まで来ると、藩の怠慢が原因となったフェートン号事件で佐賀藩士16人が切腹したとも言われる腹切坂下の方の峠で、地名は烏合場(とろしば)と言う。まず、ここに藩境石がある。「従是北佐嘉領」「彼杵郡之内日見境」。設置場所を彫った珍しいものらしい。国道が拡幅されたため、「網場道」バス停から左道へ上ってしか行かれない。日見第3団地突き当りの道にこの標石はある。25cm角、高さ1.3m。
腹切坂はいろいろな説がある。「網場道」バス停近くに日見腹切坂史跡保存会が、平成14年国道工事により移設整備した碑の一角が由来とともにあったので紹介した。

番所・矢上を過ぎ、街道は長龍寺橋あたりから八郎川の右へ東町を行く。高速道のガードをくぐり、役の行者神社先は古賀との境であった。ここに「従是南佐嘉領」がある。24cm角、高さ1.5m。天領だった古賀村は、安政6年(1859)戸町村と交換されて大村領となっている。

中里町へ入ると街道をはずれて古賀村庄屋屋敷跡に「従是東北大村領」「従是南大村領」の2本の標石がある。和仁会病院正門側の登り口に当たり、左のコンクリート坂を松尾宅まで上ると、前庭に2本並べて建っている。場所はわかりにくい。案内板が必要なようだ。水害で移設され、もともとの場所は石垣下の道だったらしい。なぜ2本が近くに建てられたか。古賀敏朗著「くにざかいの碑—藩境石」(峠の会昭和58年)が詳しく推理されている。

後は諌早市となり、井樋尾のライオンズクラブ碑の傍らに「従是東佐嘉領」がある。水害でこれも50m位移設されているらしい。