「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は? ( 長崎県 )

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「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は?

平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)479頁に、「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真があったので、現地確認に行った。次頁まで良く読めば良かったのに、これは神ノ島公園から下ったところから撮影した四郎ケ島の渡り口である。
文献には「神ノ島」とあるが、「神ノ島」(四郎ケ島を含む)と伊王島の台場築造話のようだ。

左奥が神ノ島から四郎ケ島へ佐賀藩が埋め立て築造した海道で、現在の神ノ島一周市道ではない。電柱が対岸まで立っているのは、四郎ケ島の沖波止建設工事当時の写真だろう。今は電柱は撤去されている。右端の一周市道は海側に拡幅され、車道中央に立たないと、これと同じような写真は写せなかった。

平幸治氏からさっそく教示いただいた。史料のモノクロは『佐賀藩海軍史』からのもの。絵図には、神ノ島側に「崎雲岬?台場」と「崎雲山上台場」、四郎ケ島側に「四郎島台場」と「小島台場」が描かれている。全体を総称して「神ノ島台場」となる。
両方が入るようにとアングルしたつもりでしたとのことであるが、1枚に写すのは、私にもむつかしかった。

(2015年6月23日 追 記)
前伊能忠敬研究室入江氏から、神ノ島の台場は「兜崎(カブトザキと読むのか、地元の人の言うドンクが正しいのか不明)」「飛渡(神ノ島工業団地の造成時に削られて消滅し、危険な崖になっている)」「崎雲浜手」「崎雲山上」の台場が在り、他に「四郎ヶ島」「小島」が在りましたという教示があった。
嘉永5年の台場計画の場所として、『佐賀藩銃砲沿革史』160頁から、台場地図を載せる。