「○月江金公」の石碑 高浜の長野観音堂跡公民館の庭先
長崎市高浜町野中の「奉供延命水」水場の碑に続き、高浜の町中にある「みさき道」沿いの珍しい碑について、次項とも2つを紹介する。
「みさき道」は、延命水から高浜の町中へ下る。野母崎高校の正門前を通り、橋を渡って高浜警察官派出所と高浜郵便局の前の道を直進する。ここは分岐となり、真直ぐな小道が「みさき道」だが、左へ曲がる広い車道を行くと、すぐ左手石垣上に榎の大木が目立つ「長野公民館」がある。
新しい公民館は4年前に建った。この高台が「長野観音堂」の跡地である。公民館建設のため、観音堂が壊され石碑などが庭先の隅に移されている。
「延命水」でふれた11月初め長崎市高浜公民館からもらった資料「たかはまの字名の由来考」の43頁、「本村名 長野」の中にこの「○月江金公」の碑を上のとおり記していた。庭先に横倒しされ、「野母崎町郷土誌」にも記録がなかったようなので、これまで全く気づかなかったため、12月15日に碑を確かめに行った。
写真のとおり碑は横倒しにされてあった。しかし、上部の「○」の刻みは大きくすぐわかるが、「月江金公」の字がわかり難い。浜石の自然石に浅く刻んだもので、字は磨耗しているようだ。「月」の字のみ、石面のくぼんだ所に掘られ、何となくわかる。
「○」の印は、「禅僧のなかでも特に高僧だけ許された禅僧の印だそうで」とは新しい見解であった。これまで深堀や末石などの墓地・地蔵堂で同じ様な石に、上部に「○」や梵字を刻んだのは多く見ていて(別項あり)、これは経筒を納めた「経塚」と思っていた。
刻字は碑の石を見たかぎりわからない。今、この画像を首を左にして眺めると、たしかに「月江金公」とうっすらと写っている。資料の著者は、高浜の入江の月夜を風雅な文で綴っている。この碑の記録はロマンを感じる資料である。
なお、昭和61年「野母崎町郷土誌 改訂版」144頁から「長野の観音堂」は次のとおり。緑泥片岩の手洗石が珍しい。この観音堂は、脇岬観音寺と関係はないらしい。
榎の大木は公民館隣家の人に聞くと、堂の裏手にもあと1本あったが、幹が伸びて下の家にかかっていたため伐採している。
「長野の観音堂」
高浜の正端寺の裏山の北側に台地が出っぱっている。これが長野の観音堂である。入口に念仏塔がある。この境内に宝篋印塔の相輪がある。簡略化されており、高浜小学校出土と同じである。又、緑泥片岩の手洗石は、加工して、岩石のさけ目をつけており、製造年月日はないが、中世起源と考える。なお、これと同じ様式の手洗石は浜添の八幡神社境内にある。