無残! 明治32年建「脇岬村路」の標石
この標石については、まず本ブログ次を参照。概要は次のとおり。
明治32年建「脇岬村路」の標石と半島東回りルート推定図
https://misakimichi.com/archives/23
現在、三和公民館ホールの中庭に展示されている「明治三十二年十一月建」「東 脇岬」「西 髙濱」などと刻みのある標石の、もともと建っていたところは、埋め立て前の川原小池の上手である。
明治18年「西彼杵郡村誌」の記録によると、川原村に記す「脇岬村路」の起点となり、「髙濱村路」と分岐する。標石がここに戦後まで建っていたことは、証言を得て地点を確認している。
「みさき道」本道の今魚町系でない、明治の標石となるが、長崎半島を川原から脇岬へ至る東回りの「みさき道」コースも、江戸期からあったと推測させる貴重な標石である。
安永2年(1773)、当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」に、この道と思われる道が描かれている。また、川原小池の脇を上っていることは、長崎名勝図絵「河原池」に描かれている。
おととい2014年8月29日(金)、三和公民館図書室へ行った。現在、ここの中庭は、浦川建設によって「三和公民館耐震補強工事」が行われている。中庭を全部壊し、鉄骨が組まれるという。あろうことか私が見たときは、この貴重な標石がブルドーザーのすぐ脇に横倒しされていた。
ガラス越しに見ると、何か工事の傷がすでに見える。あまりの工事の無神経さに、三和行政センター所長へ苦情を言った。大切に扱うよう注意すると、すぐに別の場所へ移すと返答した。
どこへ移したかきょうは日曜で、工事現場へ確認に行った。工事現場の離れた片隅に、ほかの庭石とともに野積みされていた。標石を壊さないよう、人手で運ぶよう注意していたのに、その形跡はない。標石の損壊状況を写してきた。あまりに無残である。
深堀陣屋跡の遺構石垣破壊に続き、最近の長崎市の仕事ぶりは、見識を大いに疑う。三和行政センター所長も、あとどうするのかまったく考えていない。
標石の今後について私の考えは、三和物産販売所「みさき駅」前に「みさき道」道塚と並べて屋外展示する方法や、もともとあった川原小池上へ戻す方法もあるが、標石の表面はすでに一部欠損し、刻字も薄くなっている。屋外展示には問題がある。
西海市西海歴史民俗資料館3階展示品「旧県道一里塚」のように、三和公民館展示ホールの歴史資料コーナーの一角に、説明板とともに屋内展示してもらいたい。 https://misakimichi.com/archives/2383
長崎市長の大型コンベンション施設、MICE建設計画は、地元の身近な予算を削る。財政調整資金も勝手に使ってもらっては困る。三和行政センターは予算がないと言うなら、職員の手製でできないか。
長崎市文化財課にも、早急に対応を検討するよう電話した。標石の文化財的価値をもっと認識してほしい。