長崎外の古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第五章 山鹿・矢部
70P  肥後山鹿の風呂屋(1)
山鹿温泉桜湯。桜湯は明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋で、多くの人々に親しまれていた。昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少。現在、再び木造の湯屋として復元された。  
061 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/210mm×163mm 大

71P  肥後山鹿の風呂屋(2)
山鹿温泉は平安時代の末に、鹿が湯浴みしていることから発見されたと伝えられる古い温泉場である。豊前街道の宿場町であったことから、全国にも広く知れわたった。江戸時代から湯治客でにぎわい、「肥後国誌」には「湯療ノ貴賎男女昼夜不絶」と記されている。  
062 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/215mm×163mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
70P「肥後山鹿の風呂屋(1)」と、71P「肥後山鹿の風呂屋(2)」は、現在の山鹿温泉元湯「さくら湯」である。熊本県観光サイトなごみ紀行による施設案内は、次のとおり。

「さくら湯」は、今から約370年前に肥後細川藩初代藩主(細川忠利公)が山鹿の温泉を気に入り、「御茶屋」を新築したのがその歴史の始まりで、約250年前に書かれた「山鹿町絵図」には「御前湯」として記録されており、大改修が行われた明治3年から昭和48年に取り壊されるまでの約100年間にわたって山鹿市民の大切なコミュニケーションの場として愛され親しまれていた市民温泉で、「八千代座」と共に湯の町山鹿のシンボルでもありました。
その後、大規模都市再開発事業により昭和50年に、鉄筋コンクリート造のさくら湯(温泉ビル)が完成しましたが、当初の予想以上に老朽化が進んだことを契機に、往時のさくら湯を再生しようという計画が持ち上がり、…「さくら湯再生基本構想」により、…平成23年7月より「さくら湯建設工事」に着手しまして、平成24年11月23日(祝)開湯(オープン)しました。

さくら湯パンフレットによる「さくら湯物語」も参照。これは次HPに「さくら湯の歴史」としてある。現在の経営主体は、一般財団法人山鹿市地域振興公社と思われる。
http://sakurayu.coresv.com/?page_id=244
これら資料によると、長崎大学の古写真解説は、次の点に疑問がある。

1 山鹿温泉さくら湯は、明治3年〜5年 地域全体が工事にかかわり、市民温泉として生まれ変わった。明治5年(1872)に竣工しているので、撮影年代はその後であろう。人力車の普及もこの頃である。
2 「明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋」とあるが、それは明治31年 道後温泉の棟梁・坂本又八郎氏を招き大改修を実施した後のことではないか。
3 「昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少」とは、「昭和46年8月に起きた市内中心部の大火により再開発議論が活発化。昭和48年、大規模再開発事業によりさくら湯の解体が始まります。昭和50年に再開発ビル(温泉プラザ山鹿)が完成し、さくら湯はビル内に造られました。その後、平成21年11月まで、ビル内で営業を続けました」というのが実情である。
4 マンスフェルトは、1866年7月、ボードインの後任として長崎の精得館に赴任した。5年の任期を終え、1871年、3年間の契約で熊本古城医学校の創始にかかわった。一時帰国し、1876年に京都(府立)療病院の教師として3年契約で赴任した。熊本に滞在していた間に、マンスフェルトが撮影した写真と考えられないことはない。
5 2枚の同じ古写真は、現在のさくら湯パンフレット、説明板にも掲載され、「明治初期のさくら湯(人力車も見えます)」または「外湯の大改修が行われ、さくら湯が誕生しました」と説明がある。資料室にも展示されていたが、山鹿市は撮影者まで調査していないようである。