江藤新平、脇岬の御崎観音参詣の記録 明治7年2月
平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」長崎新聞社刊(新装版)608頁から、次の記録を載せる。
脇岬行きは、明治7年(1874)2月のことである、深堀から小舟で日帰りした。古写真は長崎大学データーベースから上野彦馬撮影の明治6年頃の観音寺。
江藤新平が一時逗留した「渡辺聞櫓の別荘豊睡園」は、深堀陣屋御屋敷跡の一段下、アコウ大木がある先の市有地広場のところにあったと思われるが、まだ確証はない(平氏研究中)。
現在は武家屋敷通りの壊された石塀置き場と、カトリック深堀教会新築工事の現場事務所が建っている。
…さて、深堀における江藤は深堀家士渡辺聞櫓の別荘豊睡園に泊まったり、小舟で脇岬の御崎観音に参詣したり、数日を悠々と楽しんだ。前掲『江藤南白』(下)には、渡辺元(ママ)の実話として次のようにある。ただし渡辺元は渡辺聞櫓の長男であるから、実話はおそらく元でなく聞櫓自身が語ったものであろう。聞櫓の本拠は深海であったから深堀の居宅は別荘と表現したものと思われる。
二月四日、南白(江藤)先生は、江口村吉、浦川丈高、船田次郎の三人を随へて、予が深堀なる別荘豊睡園に来られた。翌五日は無事滞在で六日の朝小舟にて、肥の岬の観音に遊ばれた。肥の岬は野母半島の突出した、風景絶佳の地である。長崎より海上七里、深堀より四里、此行、南白先生は、一泊掛の積で行かれたが、俄に其日に帰られた(同書416頁)。