「長崎市史」に記された烽火山の旧時の正道と南畝石など (2)
これは、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集60〜66頁に収録した記録をそのまま再掲したものである。平成19年4月発行のため、当時の調査記録である。資料類は一部省略。レポートを参照。
その後の調査で判明した旧時の正道、亀石、傴僂巖などは、関係資料を載せ、後ろの記事により詳しく紹介するので、あらかじめ了承をお願いしたい。
前の記事から続く。
(5)大田南畝とは
大田南畝とはどのような人で、どんな名前や別号であったか。有名な人だからいろいろな本は中央で出版されている。市図書センターに日本歴史学会編集人物叢書 浜田義一郎著「大田南畝」(吉川弘文館 昭和61年新装版)あり、長崎奉行所時代が189〜203頁に記されている。
手っ取り早くは、インターネットのHPである。歌碑の「杏花園」は南畝の別号だった。
大田南畝 出典:フリー百科事典『ウィキベティア(Wikipedia)』
大田南畝(おおたなんぼ)寛延2年3月3日(1749年4月19日)−文政6年4月6日(1823年5月16日)は天明期を代表する文人・狂歌師。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。名は覃(ふかし)。通称、直次郎、七左衛門。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。または狂詩には寝惚先生と称した。
江戸の牛込生れ。勘定所幕吏として支配勘定にまでのぼりつめたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲(からころもぎっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。寛政の改革により戯作者の山東京伝らが弾圧されるのを見て狂歌は止める。蜀山人はそれ以降の筆名。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。
私の娘の高校時代の副読本が、家に残ってあった。最近の新版より詳しく載っている。以下この抜粋。
長崎県高等学校教育研究会国語部会編 「新訂 長崎の文学」 同研究会 平成3年第三刷
大田 蜀山人(おおた しょくさんじん) 160〜166頁
(1749〜1823)天明期の狂歌・狂詩・狂文の中心的存在。長崎には長崎奉行所支配勘定役として1804年(55歳)から翌年まで在任した。
付 記 ②彼は漢学者としては大田南畝、狂歌には四方赤良などの号を主として用いている。明和4年(1767)19歳で初の狂詩集を出版した時には「寝惚先生文集」と題しているし、その他にも巴人亭、四方山人などその号は豊富で長崎における著書には多く「南畝」「杏花園」の号や「覃」という名を署名している。これは彼の長崎における文学傾向が漢詩・漢学・漢籍に傾注されていた証左といえよう。
(6) 「長崎市史」に記述がある南畝の作品
南畝が長崎在任時代にどのような作品をつくったか。まとめたものがわからないので、「長崎市史」中の記述から次のとおり彼の作品と思われるものを抽出してみた。詳しくは関係資料の抜粋に掲げた。使用名号は、記述のとおりとした。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看 杏花園 大田南畝
春日野にあらねと高き山の名の飛火もたつてうこきなき御世 太 田 直 次
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來 南畝 太田 覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋ぬふべかりけ 四 方 歌 垣
わりたちもみんな出て見ろ今夜こそ彦山やまの月はよかばい
長崎の山から出てた月はよかこんげん秋はえつとなかばい 四 方 赤 良
天后土神關帝祠、幾番船主賽崎陽、門聯扁額多相似、疑入蘇州桂海涯 太 田 覃
故郷に飾る錦は一と年をヘルヘトワンの羽織一枚 蜀山人 太田直次郎
「長崎市史」に記録はなかったようだがあと1つあった。鳴滝2丁目にある歌碑の詩文。これはどしょう会の「長崎の碑 第五集」と岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」などに記載がある。
披楱踰嶺踏烟雲、七面山高海色分、一自征韓傳奏捷、至今猶奉将軍 大 田 覃
(7) 烽火山南畝石の記録
烽火山山頂かま跡近くにある「長崎市史」に記した南畝石の歌碑は、こうして現存していることがわかった。この歌碑は資料10の長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年刊に紹介されてないため、他に資料がないか調べることとした。
長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)」と岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」「長崎周辺"石・岩・陰陽石"」「長崎奉行史跡」は、資料10と同じく山上の碑まで調査は及んでいない。
どじょう会にはあと1つ、資料8のとおりの長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書(追加 その一)」平成5年があった。「一、城郭の分(東部)1、烽火山」とし、平成3年5月調査の記録。
本文では「また烽火台の北西側に表示板及び標示石、祭祀物などが設けられている」と説明し、別図によると当該場所に「烽火山標示石」とし、「烽火山頭極目着 ○○○○○○ ○○○○○○ 文化二丑年中村季圃命」。全横約1.0、高さ約1.8mの碑の図がある。これが歌碑のことだが「標示石」とされている。刻は私が読んだのは、「着」は「看」、「中村季圃命」は「中村李囿命工」となり、詩文の配列も違う。鳴滝の歌碑にある「此詩中村某嘗欲刻之」は同一人だろう。
問題は写真にある。当時の石祠を写した「写−1 山頂祭祀物」(写真左)に、石祠の後ろに本来立っているべき歌碑が左側に斜めになって完全に倒れている。石祠も台座があったのか地面から少し高く、現況と違う。碑面がどの方向を向いていてこの字の刻が読まれ、いつ倒れた歌碑をだれがいつ起こしたか。疑問が深まる。どしょう会の当時調査に当たった人に聞きたいが、わからないでいる。今回写した写真を見ても、石の左根元が損傷しているようであり、一時倒れていたためなのかも知れない。
次は、資料9のとおり宮川雅一著「長崎散策 歌碑・歌跡を訪ねて」出島屋プロダクション平成
15年である。「大田南畝」は9〜11頁において、地元川柳関係者が建立した諏訪神社境内に立つ『彦山の月』碑を紹介、最後に「南畝については、その漢詩を刻んだ石碑が市内に散在している」として、
(1)烽火山山頂の石碑 中村李囿建
(2)七面山入口の石碑(現在は鳴滝二丁目十四番地の川沿にある)
(3)長崎公園呑港茶屋前(かつては一の瀬<蛍茶屋あたり>にあったという)の『蜀山人之碑』
の3箇所を場所だけ掲げられている。
この本は、鶴見台森田氏が長崎市中央公民館の蔵書で見つけてくれた。烽火山山頂の歌碑の存在は、宮川先生など知る人はやはりおられたのである。大田南畝の市内に残る最も立派な歌碑なのに、詩文など詳しい紹介が本になかったのが惜しかった。
宮川先生にお聞きすると、碑は実際見られてなく、「らめーる」関係の方で蜀山人を詳しく研究されている方がおられ、連絡を取ってみたいということだった。
次の記事へ続く。