烽火山のかま跡と烽火山  長崎市鳴滝3丁目・木場町

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烽火山のかま跡と烽火山  長崎市鳴滝3丁目・木場町

長崎市東部の山、烽火山(標高426.0m)山頂にある県指定史跡「烽火山のかま跡」説明板と、長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」による説明は、次のとおり。

県指定史跡「烽火山のかま跡」説明板

指定年月日 昭和43年4月23日
所在地 長崎市鳴滝町447
所有者 長崎市
この烽火台は、異国船の侵攻を近国に知らせるため寛永15年(1638)に造られ、その後文化12年(1815)改築された。この円堤の中に薪を入れて火をつけ、昼は煙、夜は火をあげて急を知らせるもので、正保4年(1647)ポルトガル軍艦2隻が来港したときに初めてここに点火された。近くに用水池や薪小屋などの遺構がある。    長崎市教育委員会

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年

165烽火山(所在地:鳴滝3丁目・木場町)          15頁
烽火山は、一名を斧山、または遠見岳とも称された。寛永15年(1638)島原の乱を平定した老中松平伊豆守信綱は、長崎港の警備を強化、野母崎町の日野山(権現山)に遠見番所を設置するとともに、この斧山にも番所と烽火台を設置した。野母の遠見番所で異船を発見すると、その合図の信号は小瀬戸から十人町、永昌寺と各遠見番所をリレーされ、長崎奉行に報告された。さらに、近隣の諸藩に応援を求める際は、烽火台から烽火を揚げたが、烽火は琴尾岳(長与町・多良見町)、烽火山(高来町)とリレーされた。番所は山頂付近にあり、烽火詰と呼ばれた遠見番が詰めた他、人夫の徴発や薪等の保管等は長崎村庄屋森田家が当たった。烽火台(県・史跡)は円形で、外壁は高さ2間、深さ3間で、杭の直径は2間4尺、その縁は石灰で塗り固められ、外壁の下部には3ヶ所の火入口があった。烽火台の周囲は矢竹来で囲まれ、内部への一般人の立入は厳しく禁止されていた。
関係史跡
49烽火山かま跡、182長崎村庄屋森田家宅跡、107観善寺、102永昌寺、159小瀬戸遠見番所跡、71長崎奉行所立山役所跡