修験者 野田成高「日本九峰修行日記」による御崎観音詣での記録
修験者 野田成高は、文化10年(1813)に御崎を訪れ「日本九峰修行日記」に表わしている。関係部分を転載した野母崎町「野母崎町郷土誌」改定版、昭和61年刊の史料78頁は次のとおり。
野田 成高 「日本九峰修行日記」 文化十年(1813)
三月廿九日 半天。御崎の観音とて長崎より七里の當り霊仏あり、詣でんと辰の上刻発す、旅館主熊次郎並に八郎次父子同道也。唐船番所、石火矢臺一見す、昼時観音着納経本堂東向寺一ヶ寺、御崎村峰隼人と云ふに宿す。
(略 四月三日までは樺島を托鉢して滞留)
四月四日 晴天。樺島立、辰の刻。元の御崎村へ渡り野母と云處へ赴く、此處九州の西の果也。日の山大権現と云ふへ詣つ、麓より二十丁山に上る、御殿辰巳向、此處より三丁計西の山崎へ出れば長崎奉行の遠見番所あり、四方一目に望む、東は薩州甑島、硫黄ヶ島、天草島、西は五島壱岐、北は平戸、對島等也。絶景の地にて唐船阿蘭陀船も此前を通り長崎へ入港す。右両所の船遠眼鏡にて百里も沖に居るを見付け、長崎へ早速通す。此遠眼鏡台所々にあり、早く唐船を見掛けたる方長崎へ通知し、其甲乙を争ふ事也。此の野母崎役人を川原増蔵と云ふ、此番所にて望見し、永々話したる後御用の遠眼鏡を出して見せらる。五島、壱岐は廿里沖也、然れとも手に取る如く見ゆ、今夕此の番人増蔵宅にて宿す。
五日 野母村川原氏へ滞留。當所に町あり配札、昼より雨に成りたる故帰る。熊野権現に詣つ、又勝行院と云山伏宅へ行く。
六日 雨天。滞留。痘瘡守、安産守、段々頼むに付来祈念し遣す。麒麟けつ等貰ふ。琉球芋の団子馳走あり。
七日 晴天。野母立、辰の刻。深堀と云浦は肥前家の附家老鍋島七左衛門とて高三千也石、諸士家宅大分あり、町少々あり。皆々瓦葺也。當所権太夫と云ふに宿す。