長崎名勝図絵の風景  30  桑 姫 君 墓

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長崎名勝図絵の風景  30  桑 姫 君 墓

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

HP「広助さんの丸山歴史散歩」によると、次のとおり。
E-168:桑姫様屋敷跡・墓所跡
竹の久保町12(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹ノ久保町)【西高校】
西高校がある高台は江戸時代、竹ノ久保郷字尾崎と称し、その昔、大友宗麟の子である大友義統(ヨシムネ)の娘:阿西御前(オニシゴゼン)の屋敷とその後の墓所があった場所でした。そして明治時代になりその場所が陸軍の重砲大隊用地となることになり、明治33年(1900)志賀家子孫:志賀親朋によって淵神社内に移設されました。※E-146:2009/10/24参照

ブログ「シスターのつぶやき」2009年11月23日 (月)記事■ 桑姫社 には、禰宜の下條氏を訪ねて、次のようなお話があったと紹介されている。
現地の淵神社には、大友家の家紋が入った桑姫の由来を記している石祠もある。
「また、桑姫は天女にも言われています。桑姫の死後、「桑姫御前塚」と彫られた塚が築かれました。その塚は「長崎名勝図絵」に“桑姫君墓”として紹介されました。いかに人びとに愛されていたかがわかります。文政12(1829)年には、桑姫の徳をたたえる大きな石碑“天女廟碑”が、万福寺(現淵神社)境内に建立されました。
桑姫の塚は、行方不明になっていましたが、ロープウェイの工事の時に発見され、現在は桑姫社の祠の下部に置かれています」

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

195  桑 姫 君 墓  (文献叢書 184〜185頁  所在地 長崎市淵町)

浦上渕村竹のくぼという所にある。桑姫というのは豊後の大友宗麟の女で、阿西御前という。 邸宅のあった場所の名を取って称した。大友氏滅亡(1587)後、家臣志賀某 今の渕村庄屋志賀氏の祖 がのがれて長崎の浦上渕村に住んだ。のちに西の御前が孤児となって、寄るべなく哀れに住んでおられる由を聞き、すぐさま迎えに行き、甲斐々々しく仕えたので、人皆感心して噂した。寛永年中(1629−32)奉行、*竹中采女正がこの事を聞かれ、時服米穀酒若干を賜わった。その後、西の御前が病死されたので、その居所であった竹の久保に葬り、塚を築き、桑を植えて墓所の標とした。それからは誰いうとなく桑姫君と呼ぶようになり、今もなお年々の祭りがされている。

野口文竜云、今は桑の木はない。巨石一個があるだけである。里民がこの墓に不敬をすれば、祟りがある。傍の小樹は、後の世の人が植えたのであろう。〔*竹中采女正は豊後府内城主より長崎奉行に転じてきたといわれるので、大友家の末流については、関心をもったのであろう〕