現在残っている「みさき道」の道塚(12本)の場所・刻面等
① 十人町の石段脇
上部はすっかり磨耗していて、刻字不明 地元の話では変体仮名で「みさき道」と刻まれていたという
② 二本松山中(上戸町)
正面「みさき道」 左側面「今魚町」
③ 高比良園芸内(新小が倉)
正面「御崎道」左側面「文政六年葵未二月」 右側面「今魚町」下の部分は土中に埋もれている (1823)
④ 蚊焼西大道
正面「みさき道 今魚町」
⑤ 蚊焼元松尾
正面「 今魚町」 上部は欠損
⑥ 岳路海水浴場前バス停下
正面「みさき道」 右側面「今魚町」
⑦ 徳道車道三叉路
正面「御嵜ヨリ二里」 右側面「長崎ヨリ五里」 左側面「文政七年申十一月 今魚町」 (1824)
⑧ 野母崎ゴルフ場裏門内
墓石を転用、文字は重複 正面は地蔵彫刻 右側面「右御崎道」 左側面「左川原道」
⑨ 同上道塚の5mほど奥
正面「みさき道 今魚町」 左側面「上 川原道」
⑩ 観音寺の境内石段脇
正面「道塚五拾本」 右側面「天明四年 辰八月吉日 勝山町石工 山下左吉」 左側面「今魚町」(1784 寄進の意味か)
⑪ 脇岬海岸国道上
正面「従是観音道」 左側面「山道十丁」 裏側「元禄十丁丑九月吉日 願主敬建」 (1697)
⑫ 三和「みさき駅」前
正面「みさき道 今魚町」(県養護学校近くにあったのを移設展示)
道塚の種別等による分類
今魚町系 コース①②③④⑤⑨⑫ 岳路⑥ 花崗岩里程⑦ 五拾本⑩ 計10本
異 質 墓石転用 川原道⑧
観音道 花崗岩里程⑪
道塚の刻面がある建立年別
(建立者不明)
元禄十年(1697)⑪ 脇岬海岸国道上 正面「従是観音道」左側面「山道十丁」
(今魚町建立)
天明四年(1784)⑩ 観音寺の境内石段脇 正面「道塚五拾本」左側面「今魚町」
文政六年(1823)③ 高比良園芸内(新小が倉)正面「御崎道」左側面「文政六年葵未二月」右側面「今魚町」
文政七年(1824)⑦ 徳道車道三叉路 正面「御嵜ヨリ二里」右側面「長崎ヨリ五里」左側面「文政七年申十一月 今魚町」
(注) この表は、中島勇氏資料『観音信仰「みさき道」』などを参考に作成した。
現存の外「みさき道」道塚があったとされる地点
次は、現在までの調査で判明した現存する12本の道塚のほか、参考の関係資料または記憶談の聞き取りによって私達が把握している「みさき道」の道塚があったとされる地点である。コース順に並べてみる。一部重複したり、場所誤りも考えられるようだが、資料等のとおりそのまま掲げてみる。
1 石 橋 原田氏「観音信仰と御崎街道」
2 出雲湧き水地点 中島氏「野母半島とみさき道図」説明
3 ダイヤランド 峠付近 蚊焼山村氏記憶談 (三菱地所開発問合せ不明)
4 同 旧地図山頭地点 蚊焼山村氏記憶談 ( 同 )
5 同 旧地図一本松地点 蚊焼山村氏記憶談 ( 同 )
6 平山台上タンク地点 蚊焼桑原氏記憶談
7 平山台三叉路 中島氏「野母半島とみさき道図」説明
8 国道蚊焼入口 蚊焼桑原氏記憶談
9 同上坂の途中 蚊焼桑原氏記憶談
10 同上坂上の平地 原田氏「観音信仰と御崎街道」中島氏「野母半島とみさき道図」説明
11 草積祠の先 蚊焼桑原氏記憶談
12 蚊焼峠推定地点 蚊焼桑原氏記憶談
13 妙道尼信女墓地点 蚊焼桑原氏記憶談
14 堂 山 峠 原田氏「観音信仰と御崎街道」
(コース外)
1 川原前小池裏字池平 明治32年建立 宮崎高崎氏記憶談 三和中央公民館保管中
2 二ノ岳ピーク間 何かの石柱 高浜在住の人の記憶談