山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年・2005年
「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年と2005年版。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102〜103頁、第2集平成18年4月発行25〜26頁ですでに紹介済み。
新全国歴史散歩シリーズ42「長崎県の歴史散歩」 1989年 71〜72頁
長崎県高等学校教育研究会社会科部会編 山川出版社
みさきの観音禅寺 ■西彼杵郡野母崎町脇岬 JR長崎駅バス脇岬行観音寺入口下車3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。その最南端にある権現山(198m)は陸繋島で四方が一望できるので、1638(寛永15)年遠見番所が置かれて、外国船の来航を長崎奉行所に通報した。
東海岸にまわると、弁天島へと陸繋砂州が伸びる脇岬である。その北方の殿隠山の山すそに、709(和銅2)年行基菩薩の開基という観音禅寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、ヒノキ一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。“みさきの観音”と呼ばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」と呼んだ。長崎市十人町の活水女子短大への登り口に「みさきみち」と刻まれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中三和町の徳道集落には「長崎より五里、御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎にむかう唐船が風待ちのため寄港したことも多く、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の抜荷商人は観音寺詣りと称して、密貿易の利を求めてみさきみちを利用したといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女名も多く、観音堂内陣の150枚の天井板絵(県文化)は船津町(現在の恵美須町)の商人が奉納したもので、1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一家や出島絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人の目をみはらせるとともに、当時の抜荷商人の豪勢さをしのばせている。
(注) 「殿隠山の山すそ」は「遠見山(259m)の山すそ」、「みさきみち」は刻面のとおり「みさき道」、「八郎岳(590m)の中腹を南下して」は「八郎岳(590m)のふもとと半島の山を南下して」の表現がよいと思われる。
密貿易は確かに多かったが、通常は長崎から遠く離れた海域で「船」によって行われ、「みさき道」がどのように利用されたかはっきりしない。「長崎犯科帳」も数例しかない。唐貿易の主な輸出品となった海産物の調達のため、この道が利用されたのではないか。
天井板絵を含め、寺への寄進者が「抜荷商人」のようであり、記述は再考願えればと思う。
歴史散歩(42) 「長崎県の歴史散歩」 2005年 66〜68頁
長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史文科会編 山川出版社
⑦ 旧炭鉱の島々を望む長崎半島の史跡
観 音 寺(37) 国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844 長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の殿隠山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から活水女子大学へのぼる上り口に、「みさきみち」ときざまれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道集落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄港し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の商人のなかには観音寺詣りと称して、抜荷(密貿易)の利を求めて、みさきみちを利用したものもいたといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵美須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。
また樺島には、国の天然記念物に指定されているオオウナギの生息地もあり、体長2mにもなるオオウナギが樺島の共同井戸に古くから住みついている。
権現山展望公園(38) 長崎半島の先端 異国船来航を奉行所へ通報
長崎市野母町野母 JR長崎本線長崎駅 バス野母崎方面行野母 車10分
野母半島県立公園の先端にある権現山(198m)頂上の展望台は、日本本土の最西端にあたり、四方に天草・雲仙、五島灘、高島や香焼、長崎方面、遠くは鹿児島県甑島を一望することもできる。古来,名僧の登山が多かったともいわれているが、1638(寛永15)年遠見番所が設置されて、外国船の来航を発見すると注進船で長崎奉行所へ通報された。
この注進方法をさらに迅速化するため1688(元禄元)年、信号による連絡方法が採用され、小瀬戸や梅香崎、観音寺に番所が設けられ、幕府の異国船警備の一役をになってきた。その後、明治・大正・昭和各時代をつうじて日本海軍の望楼がおかれ、第二次世界大戦当時は、電探基地・高射陣地が設置された。終戦後はアメリカ軍のレーダー基地となり接収されていたが、現在はバーゴラや椿公園、まごころの鐘などの施設の整った公園になっている。
(注) 先の研究レポート資料11刊行本の新版である。2005年6月改定発行されたのを知らず、1989年旧版を紹介していた。字句は一部修正されているが、まだ全体にやや正確さを欠く箇所が感じられる。当時の唐貿易の状況は別資料で紹介してみた。