長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真紀行:48 南山手居留地
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
長崎古写真紀行:48 南山手居留地
〔画像解説〕 石炭積み込みの汽船が停泊する長崎港
飽の浦から見た明治中期の長崎港。対岸は鍋冠山山麓の南山手居留地から浪の平町、古河町である。港内には多くの汽船が停泊している。左手前の船には何本ものはしごが掛けられ、大勢の人が、団平船で運んできた石炭を船に積み込んでいる。当時は陸から直接積み込むことができず、海上で石炭を積み込んでいた。
長崎港は、高島炭鉱等で良質の石炭が産出したため、明治期には石炭の補給港としてにぎわった。貿易額では、横浜港の1割以下しかなかったが、汽船の寄港数は横浜の数倍に達していた。
目録番号: 987 飽の浦からの汽船と南山手
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎市街地の西岸、飽の浦と立神の中間岩瀬道の身投崎付近から、鍋冠山麓の南山手外国人居留地南限と古河町を写した写真である。年代を特定できる構造物はないが、南山手の居留地の進展状況から、明治10年(1877)代後期から明治20年(1887)代前期の撮影である。長崎港に3艘の大型の船が撮影されている。1艘の船に石炭が積み込まれている。高島炭鉱等で良質の石炭が算出したために、長崎港は明治期には石炭の補給港として賑わった。陸上からの石炭を補給する施設がないために、和船で運んできた石炭を補給している。船の向こうは、南山手居留地の南限であり、大規模な洋館が鮮明に撮影されている。明治後期に造られる、マリア園や現在保存されている建物は見られない。石炭を補給している船の向こうに見えている坂道は、現在のどんどん坂である。写真の左隅に、後にロシア領事館と教会が造られる場所が見える。海岸線は、浪の平町から古河町の日本人住居地域である。
■ 確認結果
目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」が、最近発行された柴多一雄氏(前長崎大学附属図書館長)著「長崎古写真紀行」長崎文献社2011年6月刊118頁に掲載されている。
長崎新聞龍馬が動く関連企画「長崎遠めがね 古写真に見る町と人」をまとめた古写真集。右下に現在の写真を対比させているが、撮影場所がビルに隠れてわかりにくい。
データベース画像解説の「身投岩」の岬とは、現在の長崎市岩瀬道町「三菱重工業(株)長崎造船所本館」が建つところ。古写真の「右下」ではなく、「左下」の岩が「身投岩」のようである。この間に湾入があり、現在は第3ドックができている。浪の平の背後の山は鍋冠山。真ん中に星取山がわずかに覗く。右奥の遠い山は戸町岳である。
「三菱重工業(株)長崎造船所本館」は入構禁止なので、私は現在の写真を正門前から写した。実際の撮影場所は、鍋冠山をもう少し下から見上げているので、本館ビル下、迎賓館「占勝閣」となった先端あたりからではないだろうか。
本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1590
なお、目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊62頁にも掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は「1890年頃」となっている。
85 長崎港 ca.1890 長崎
鎖国時代唯一の外国貿易港は、明治になっても良港として外国船の出入りでにぎわった。この角度では船影がまばらだが、港全体はパノラマ撮影によらなければ写せない。稲佐山側から港内を撮影したもの。