鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

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鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

この稿は、研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。前記事(1)の参考として紹介する。関係資料は略。
写真は、鍋冠山展望台の山頂三角点169.3m、山頂北北西側斜面の採石跡と上人像など。

7 星取山の観測拠点「囲い石」と鍋冠山の「測点」はどこに
明治初期、アメリカ隊金星観測と地理局緯度電信測量測点を見る

(1)アメリカ隊の金星観測—星取山  掲載略

(2)地理局経度電信測量—鍋冠山

星取山の先の碑から山道を下ると鍋冠山へ行ける。次はこの鍋冠山にあった不思議な標石の話である。明治12年から13年にかけて、内務省地理局が鍋冠山と東京赤阪旧天文台との間に経差を電信測量した。山頂あたりの測点の場所に標石が建てられた。『方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた』というのである。

これは、大正5年4月発行日本天文学会「天文月報」第九巻第1号に、田代庄三郎氏が「長崎に於ける経度電信測量の測点」として鍋冠山の測点を次のとおり報告している。
『明治四十三年報時球建設の当時経度を定める必要から、先第一に此山の測点を捜索したが分らなかった。爾来四閲年漸く昨今に至つて、其の標石だけを発見することを得た。其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ッに折れて横つてあつた。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた。勿論標石のあつた所に立てゝあつたのではないことは明白である。…』

田代庄三郎氏とは、鍋冠山の中腹に当時できた長崎報時観測所の所長である。同氏の報告は、金比羅山の煉瓦台再発見につながった重要な記録として、原口先生の報告書に表れている。
『(地元の方や伊原市議から)その話を聞きながら、記念碑からの方角や発見されたときの状況等をお尋ねした。そして、“それはまぎれもなく探し求めていた観測用の台であろう”という確信を持つにいたった。この煉瓦台については、大正5年に田代庄三郎氏が「天文月報」に次のように報告している。
「この碑を去る東十五間の所に、長さ二寸一尺、幅一尺九寸、高さ一尺六寸の煉瓦で築き上げた頗る丈夫な台がある。多分此の上に携帯用子午儀でも据付けて、時の観測をやったものであろふ」
田代庄三郎(1916):「長崎金刀比羅山金星経過観測記念碑」、天文月報8,3月号,P.141』

内務省地理局が実施した三角測量と経度調査については、原口先生の報告書215〜216頁に地理局年報・報告書などを資料として詳しい説明がある。ところが、田代氏が存在を発見し大正5年記している鍋冠山の明治12年「天象観測指点」標石のその後は、何もふれられてない。
このため、私は困ってしまった。

実は、この鍋冠山測点の田代氏稿「天文月報」掲載資料は、京都市上西氏から送っていただいたものである。天門峰と魚見岳の「地理局測点」を照会した「訪ねてみたい地図測量史跡」著者山岡光治氏が、長崎に寄こすかも知れないと言った知人が上西氏であった。長崎来訪を打ち合わせ資料を貰い、来訪は2月下旬実現した。21日午後到着し、天門峰・魚見岳・大久保山・八郎岳、翌22日は昼過ぎまで、金比羅山・星取山・鍋冠山を案内した。

さて鍋冠山の明治12年「天象観測指点」の標石である。山頂より北北西の急斜面でやや下った所とあり、巌岩の山で採石の跡とも表現がある。鍋冠山はそのとおりの山であった。昨年秋から展望公園として再整備完成して一変していた。標石は見当たらない。洞穴の採石跡と苔むした柱状節理の岩間に上人像があった。
上西氏のするどい観察は、山頂三角点に少し離れた場所に建ててある高さが人の肩ほど、台座のある石祠である。屋根を乗せていたが常夜灯の形をしており、屋根を外せば「子午機」を据えられる薄い平板の石が間にあった。仙台でそんなものを見たと言う。だが、石に連名の刻字は大正十五年のようだ。方位の刻みがないか、石は重くて外して見ることはできなかった。
上西氏は原口先生を一度お尋ねしたいと思われた。「天象観測指点」の標石のその後に関し記録や知っている人がいれば教えてほしい。

東山手町の「誠孝院」の入口を通り、「みさき道」は石橋へ下る。「誠孝院は、寛保3年(1743)誠孝院日健が創建。日健は岡山の人で、鍋冠山の山中で日親上人像を発見、大村因幡守純保に大浦(現大浦相生町)の地を懇請、小庵を建てたという。文化6年(1809)以降、長崎異変の際の大村藩の陣屋とされた。昭和初年、寺域狭隘のため、澤山精八郎の寄付により現在地に移転した」(長崎市立博物館刊「長崎の史跡」)

田代氏稿は、五で鼠島及び三菱造船所第三ドック附近にあった海図経緯度基点についてもふれられている。「小さい島や小区域ではあるが目標となるべきものも存在しておらぬ」結果だった。
鼠島については、陸軍省第一地帯標石がないかとも小瀬戸で聞いたが、話は聞けなかった。今は陸続きとなり、長崎県がコンテナ基地を造るためさらに埋め立ての計画があるらしい。
昭和58年平山久敏著「小瀬戸町史跡」はふれてないが、鼠島は黒浜・以下宿で見られる「変はんれい岩」という濃緑色の岩石(県天然記念物)と同類の角閃岩が見られる島である。地元の人は、開発一本やりで後世に残すべき自然や史跡があまりに破壊されつつあることを心配していた。
三菱造船所身投崎については、国土地理院九州地方測量部が探しておられるが、なにせ構内の入場がむつかしいらしい。