傾城塚(音羽の碑) 上小島墓地内
長崎市上小島2丁目13墓地内にある。ピントコ坂の上の方で「茂木道無縁塔」先の峰家墓地前が入口で説明板と標識がある。「ピントコ」の坂名もこれにちなむ。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊31頁の説明は次のとおり。
中国人何旻徳と丸山遊女登倭との悲恋の碑で、道路拡張と時代の変遷により墓地の片隅に移設されている。価値の有無は別として煙滅しないためにも、碑の場所と碑文を記録する。上小島2丁目13の張り付け板のある墓地わきの小道を少し進み、岩本・西本家墓の前を通った奥にある。刻字は消滅しているので小島ふれあいセンター、小島地区石碑巡りで竹内光美氏が漢文翻訳発表されたものを抄録して記載する。
「登倭は丸山筑後屋の娼妓で才色優れ、客に分け隔てなく接した。明の商人旻徳が一夜この楼に登り、登倭と交歓、のち相たび交えて遂に偕老同穴の契りを為した。旻徳は後、国禁を犯して処刑された。刑の日、登倭はその首を官に乞い、小島郷に葬り自らの刃で之に殉じた。元禄三年(1690)某月である。地を旻徳坂と言うのはこの故である。嗚呼、登倭は貞操節義で人々に感動を与えるものである。これに比べ世の中に恥知らずの人がいることか…
同郷の人、桐山貞四郎・田中勝三郎等二十名で相計って碑を墓側に建て、余に之を記するよう請うたのは、此のことが煙滅して伝わらなくなるのを惜しむためである。明治二十年三月十五日 浅井日昇謹記」
(注) 浅井日昇は寺町長照寺中興開基と称えられた文学・書の名僧。
なお、「長崎ぶらぶら節」に登場した愛八の墓もこのピントコ坂の途中にあり、写真を掲げる。