長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1441 神奈川台町の関門(1) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1441 神奈川台町の関門(1)
〔画像解説〕
開港後の万延元年(1860)、警備を厳重にするために設けられた。右手が山側、左手が海側である。神奈川宿は海蝕崖の上に形成された町で、台町はその一部である。この写真に添えられた解説シートには、「神奈川は細長い街で、かなりの規模の村であり、東海道に面している。茶屋や道路沿いに旅館も多い。江戸から16〜18マイル位の距離なので、江戸に到着する前日に宿泊したり、江戸から出発して最初に泊まる場所である。しかし商店は小さく、茶屋も東海道のどこにでも見られるような良いものはない」と記されている。”The Far East”1871年1月5日号に同じ地点の写真が掲載されているが、そこでは右手の崖が、鉄道用地埋立のための土取場として削り取られ、垂直に地肌を見せている。崖の上には埋立工事を請け負った高島嘉右衛門の屋敷が設けられたことから、高島台の地名が生まれた。
目録番号:1442 一ツ橋門外護持院原(超高精細画像のタイトルは「牛ヶ淵」)
〔画像解説〕
田安門から清水門までの内堀は牛ケ淵と俗称される。堀の形状が似ているから、或いは銭を積んだ牛車がこの堀に落ちたから呼ばれるようになったという。この写真は九段坂の坂上付近から牛ケ淵を望んだもの。いま少しカメラを右に振れば、田安門が写った筈である。堀の突き当りに見える長屋風の建物は近衛歩兵営の一部らしく、その左手に清水門が写っている。清水門は『東京市史稿』によると明治4年(1871)に撤廃されているから、それ以前の撮影となる。写真師はベアト(Felix Beato)である。現在の清水門は昭和39年(1964)になって復元整備されたもので、昭和36年(1961)6月に国の重要文化財に指定されている。近衛砲兵営のあった場所は、現在皇宮警察・警視庁第一機動隊・科学技術館が建つ。堀の左手は飯田町1丁目(現九段南1丁目)で、後に靖国神社の牛ケ淵附属地となり、明治35年(1960)にパノラマを見せる国光館が竣工する。現在、昭和館・九段会館・千代田区役所が建ち並んでいる所である。
目録番号:4004 一ツ橋門外護持院原の風景
■ 確認結果
〔画像解説〕を読んでわかるとおり目録番号:1441「神奈川台町の関門(1)」と、目録番号:1442「一ツ橋門外護持院原」(超高精細画像のタイトルは「牛ヶ淵」)は、古写真を入れ間違って整理されている。超高精細画像の古写真と画像解説はOK。
目録番号:4004「一ツ橋門外護持院原の風景」は参考。入れ替え後の目録番号:1442「一ツ橋門外護持院原 」と同じ写真ではないようだ。スチルフリード撮影。パノラマ写真の一部。