長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 146 久形橋
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号: 146 久形橋
〔画像解説〕
詳細位置不明。神戸市街北側に広がる丘陵山地付近の風景と思われる。
目録番号:1269 丘陵地より神戸港の遠景
〔画像解説〕
布引(ぬのびき)付近(現在のJR新幹線・新神戸駅の北側)から南方の神戸港を望む。中央を蛇行して海に注ぐのが生田川(いくたがわ)。この川の右(西)側に居留地がある。右奥には湊川(みなとがわ)河口の出洲、その向こうに和田岬がうっすらと見える。居留地の右手前の森は三宮神社。神社と居留地の間を旧西国街道が通り、3年あまり前の慶応4年1月11日(1868年2月4日)新政権の命を受けて西宮警備に向かう備前岡山藩兵と、外国人が衝突した「神戸事件」の舞台となった。生田川は写真のようにふだんは水量が少ないが、長雨が続くと氾濫して大きな被害をもたらしたため、明治4年(1871)に流路が付け替えられた。左手前の隅に付け替え工事中の新生田川が見えるので、明治4年(1871)頃の撮影であろう。この後、旧川筋は加納宗七(かのうそうしち)らによって埋め立てられて「加納町」が生まれる。”The Far East”1871年11月1日号によく似た写真がある。
■ 確認結果
神戸市文書館所蔵「又新日報」によると、検索画面で「明治24年 … 久形橋竣工式(昨日挙行につき) 葺合村生田川久形橋」と記録が出てくるが、正確な年月や橋の場所は不明。明治4年(1871)の生田川流路の付け替えの様子は、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」にある。
目録番号: 146「久形橋」の画像解説は、「詳細位置不明」とあるが、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」が、場所的に関連性のある作品だから、解説の参考となろう。
目録番号: 146「久形橋」の撮影者は、「日下部金兵衛」ではない。金子隆一氏研究紀要 ”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置””(Adobe PDF)に、「図52 神戸より布引へ至ルノ途上」として、同じ写真(東京都写真美術館などの所蔵)がある。
明治5年(1872)、明治天皇の巡幸に随行した「内田九一」の作品である。帰路7月、神戸に寄って撮影している。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「生田川」と「葺合区」の解説は次のとおり。
生田川
生田川(いくたがわ)は、兵庫県神戸市を流れる二級水系の本流。六甲山系の摩耶山北側の兵庫県神戸市灘区六甲山町付近に源を発し南流。大阪湾の神戸港に注ぐ。
…天井川かつ流域が平地であるがゆえに、水害が発生するとその被害は広範囲にわたる大きなものとなっていた。幕末の開国で、京都に近い港として神戸(当時の「神戸」は、現在の神戸市中央区のフラワーロード以西、生田裔神八社の点在するエリアを指した。同じく明治時代に付け替え工事のなされる前の旧湊川が「神戸」の西の境で、その西が「兵庫」であった。)の開港が決まったが、開港にあわせて整備することとされたが外国人居留地(神戸外国人居留地)が、その位置から、生田川の災害が発生した場合に大きな被害となることが予想された。早急なる神戸の開港・神戸外国人居留地の整備が求められたことが追い風となり、加納宗七が現在の位置に生田川を付け替える工事をし、1871年に完了した。そのため現在の生田川を新生田川と呼ぶこともある。
旧生田川の河川敷は加納宗七に払い下げられ、これが同地域の地名「加納町」の由来になっている。なお、加納町歩道橋の一角には、ここにもとの生田川があったことを示す石碑が建てられている。さらに、この付け替え工事が終わり、天井川たる旧生田川が消えたことで、以後、神戸の市街地は、明治時代のうちに、それまでは田畑や林が広範囲を占めていた東側の旧菟原郡部へ急速に拡大していった。特に、旧菟原郡のなかで、もともとの「神戸」のあった旧八部郡にもっとも近い葺合村は、1889年に神戸市が誕生した当初から神戸市となっている。
…上流には布引の滝や、神戸ウォーターの採取地があり、山陽新幹線の新神戸駅がまたいでいる。河川敷にある生田川公園は桜の名所になっている。
葺合区
葺合区(ふきあいく)は、かつて兵庫県神戸市に存在した区。現在の中央区東部に当たる。旧生田川、すなわちフラワーロードを境に東側が旧葺合区の区域である。ただし、ポートアイランドは全域が生田区に属していた。
地名としての「葺合区」は1896年(明治29年)、神戸市に6区が設置された時に始まるが、当時は行政区ではなく、地域を表す呼称の扱いだった。1931年(昭和6年)、区域はそのままに行政区となる。1980年(昭和55年)に区域再編がなされ、葺合区は生田区と統合され中央区となり、消滅した。ちなみに神戸市中央区生田町は生田区ではなく葺合区にあった。