朝日選書 152P写真 63 人力車に乗る芸子衆
長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。
朝日選書 152P写真 63 人力車に乗る芸子衆
諏訪神社近くの長崎公園で人力車に乗る4人の芸子衆。長崎公園は1863年に長崎で初めての公園となった。
撮影者不詳、1897年ごろ、鶏卵紙、25.1×20.2、手彩色
〔解説記事 150P〕 人力車に乗る芸子衆
1897年ごろ、諏訪神社近くの長崎公園(通称は諏訪公園)で人力車に乗る芸子衆です(写真
63)。当時の人力車の構造や俥(くるま)屋の服装、女性の装束・髪形などがわかります。
人力車は明治時代のタクシーでした。1870年に佐賀の和泉要助らが「車付きの西洋腰掛け台」として東京府に出願したのが始まりで、あっという間に全国の大八車や駕籠に取って代わりました。時速は8〜10キロぐらいで、歩く速さの2倍程度です。車輪にゴムのタイヤが付くのは
1900年代以降でした。
長崎公園は1873年の太政官布告により制定された長崎で最も古い公園です。中心市街地にありながら、自然に囲まれた閑静な雰囲気のある憩の場として親しまれています。
ここは江戸時代、安禅寺という寺があり、1672年には長崎奉行の牛込忠左衛門が東照宮を祀りました。この本殿は現存しています。
左の奥に見える石碑は元禄期(1700年前後)に長崎を訪れたオランダ商館付きの医師たち、すなわち『日本誌』を著して啓蒙期のヨーロッパに日本の正確な情報を伝えたドイツ人エンゲルベルト・ケンペル、スェーデン人のカール・フォン・リンネの弟子として植物学者でもあったカール・ペーテル・テュンべり、大著『日本』を出版し、日本でも多くの門人を育てたフランツ・フォン・シーボルトといった「出島三賢人の碑」です。これは現在長崎歴史文化博物館の裏に移設されています。明治の写真に写し出された景色にはまだ人工物に侵されない人間と自然の調和が見られます。
■確認結果
幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:4719「諏訪公園と人力車に乗る女性たち(1)」の古写真。解説は次のとおり。
現日本銀行横の長崎公園(通称:諏訪公園)入口から登り、県立長崎図書館前を右に折れケンペル・ツンベリー及びシーボルトの記念碑の前を通って、中央に葵の紋が入った石造りの門を潜ると公園の丸馬場(安禅寺跡)である。写真は、明治を代表する人力車に芸子衆が乗る公園の広場「丸馬場」の風景である。奥に東照宮へ行く階段と鳥居が見える。…
同データベースには、目録番号:5101「諏訪公園三賢人の碑」の古写真もあり、解説は次のとおり。
明治後期から大正期(1870〜1920)の手彩色の絵葉書。諏訪公園の入り口にシーボルトの記念碑があり、その横に、ケンペル、ツンベルクの碑が並んでいる。これらの碑は、シーボルトが出島の花畑に建てたものを、ここに移設したものである。
現在「出島三賢人の碑」は、長崎県立図書館の正門右側、長崎公園(通称:諏訪公園)入口にある。古写真に写っている縦長の石碑は、「施福多(シーボルト)君記念碑 日本の近代化に貢献したドイツ人(1796−1866) 明治12年(1879)建立」である。
朝日選書及びデータベースの解説は、それぞれ記していることが違い理解しにくい。朝日選書の解説記事について言うと、大したことではないが、次を指摘したい。
(1)長崎公園ができたのを、写真下の解説では「1863年」と記している。太政官布告の明治6年「1873年」の誤まりのようである。
(2)出島三賢人の来日年は、ケンペルは元禄3年(1690)、テュンべり(通常の表記は「ツンベルグ」)は安永4年(1775)、シーボルトは文政6年(1823)。
「元禄期(1700年前後)に長崎を訪れたオランダ商館付きの医師たち、すなわち…」とは続かない。
(3)出島三賢人の碑は「現在長崎歴史文化博物館の裏に移設されています」とある。古写真上では長崎公園丸馬場から、公園入口に移設されただけのようである。
「現在長崎県立図書館側の公園入口に移設されています」で良いのではないか。
(4)最後の写真は、古写真の撮影場所と思われる公園の丸馬場あたり。ここに三賢人の碑が一時あったのか、再確認をお願いしたい。
手彩色の絵葉書を見ると、現在の公園入口に最初から設置されたように見える。