深堀の散策 (2)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (2)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  6 (11)深堀神社、大庄屋、学校跡
深堀神社は現在の様な規模にまとまったのは明治8年以降である。元は現在の深堀小学校の校庭にあったのを小学校の建設に伴い現在地に移転したものである。
祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうづめのみこと)の二神を奉祀し、三浦神社は当地開祖三浦五郎左衛門尉平能仲公を、舘林大明神、日正大明神と共に奉祀し、天満宮及稲荷大明神、招魂廟も同一境内に祀ってある。
深堀神社は能仲公が当地に赴任して来た時はニ社の神をすでに奉祀してあり、其の肇めを知らない旨此の鳥居に記載しある処より、相当古くから祀られていたと思料せられる。
此の鳥居は二代目で、初代は寛文3年(1663年)二十一代志摩守茂春が始めて石神門を創ったと記録に見え、文政11年(1828年)秋台風のため倒れ、天保8年(1837年)大いに稔って2、3の家臣と計り、二代目を建てたのが現在の鳥居である。
此の鳥居に刻んである主旨は深堀の創設の由来を敍べているが、斯様に其の由来等を刻んである鳥居は他に見ることが出来ない珍しいもので、殊に左側石柱の四言絶句は文意壮大で、祖先の気宇をうかがうに足るものと思う。(深堀神社(幸天社)石鳥居銘記参照)。
大庄屋は今の裁判所と警察署を兼ねた役所だったそうで、平屋建ての凸凹の多い陰気な建物であったのを、学校に襲用したもので、明治7年(1874年)から明治19年(1886年)頃まで、今の小学校に移るまで小学校として使用していた所である。

写真 なし     (12)江藤新平の父の出生地(5丁目182)  略
写真 なし     (13)旧藩時代の役所跡(5丁目194)  略

写真  7〜  8 (14)東 屋 敷 跡(5丁目191,192)
通称お東と呼び第三家老樋口氏の屋敷跡で、門及塀は殆ど其の当時の面影を残しており、現在もその子孫が居住している。(現在、邸宅は改築されている)

写真 なし     (15)荒木権内、同文八郎の屋敷跡(5丁目196)  略
写真 なし     (16)喜多佐左衛門屋敷跡(5丁目204)  略
写真 なし     (17)中 屋 敷 跡(5丁目198−209)  略

写真  9〜 13 (18)本 町 古 墳 群(5丁目西浜附近)
此の附近一帯を本町と呼ぶが、此の附近には縄文曙期より弥生式、祝部式に至る各期の人骨、土器、石器が包蔵されている貴重な遺跡で、学術的な調査も逐次行なわれるであろう。深堀小、中学校に出土品が蔵してある。
(現在、主な出土品は長崎市深堀支所隣りの「深堀貝塚遺跡資料館」に展示されている)

写真 なし     (19)西 屋 敷 跡(5丁目210)  略
写真 なし     (20)峰 邸 屋 敷(5丁目248)  略
写真 なし     (21)旧藩時代の厩舎跡(5丁目253渡辺水産)  略
写真 なし     (22)矢火矢施設跡(5丁目253渡辺水産)  略

写真 16〜 17 (23)旧藩時代の石の金庫(5丁目241)
此処は城島薫氏の邸で同氏の母堂は三十代藩主の娘である。尚元禄13年の長崎騒動の際9人遠島になった城島治部右衛門の子孫である。
此処に当時使用した石の金庫が現存しており、蓋も同氏の幼少の頃は有ったそうであるが、散逸して今は分らない。此の石の金庫には当時の責任者の名前等が刻まれている。