長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5317 樺島湊 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5317 樺島湊
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル:樺島湊
樺島は長崎半島の先端近く、長崎県西彼杵郡野母崎町脇岬の南方300mにある周囲7.5kmの島である。現在は、樺島大橋が架設され本土とつながれている。写真は、明治初期から中期にかけての樺島湊のある湾奥から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。樺島は良好な湊があったために、近世から近代の初頭にかけて大いに繁栄した。島内には多くの遊女屋があり、写真が撮影された明治10年代でも、7軒から9軒の貸座敷があったと記されている。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である。
目録番号:5326 野母の観音寺
〔画像解説〕
目録番号5318(整理番号102-24)と同じく上野彦馬アルバムに収載されMisakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは野母崎の御崎円通山観音禅寺である。『長崎名勝図会』によれば、本堂の創営は和銅2年(709)と伝承されその後、仁和寺の荘園と関わる。天文6年(1537)御崎備後守重広が再建。本堂の天初院は元和2年(1616)で、この時深堀から曹洞宗の一翁純和和尚を招く。長崎をはじめ近郷在住の信仰の対象で、海に携わる商人、漁業従事者、中国人の霊場であった。観音堂には、弘化3年(1846)川原慶賀の描いた4枚の絵や石崎融思の作品を含む150枚の天井絵(県指定有形文化財)が、長崎町民などから寄進されている。写真に写されている半円アーチ型の第一石門は寛政10年(1798)長崎町民と御崎村の人々が寄進した。石工は彦兵衛。場所は長崎から20キロと離れているが、彦馬は長崎の代表的古刹としてこれを撮影したようである。
■ 確認結果
目録番号:5317「樺島湊」は、2年ほど前、 初めて東山手町の「長崎市古写真資料館」を見学に行ったら、「居留地の海岸」のようなタイトルで展示されていてびっくりした。
いきさつは次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1550
古写真の撮影場所は、長崎バス「樺島」終点から樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。鳥居をくぐってすぐ上の参道あたりから撮影されている。
〔画像解説〕によると、超高精細画像のタイトルは「樺島」。「樺島湊」に合わせた方がよい。また説明の最後に「前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である」としているが、「遠見山」(標高259.0m)は写真中央左のずんぐりした山。正面に写っている山は「殿隠山」(標高263m)なので、説明をわかりやすくしてほしい。
目録番号:5326「野母の観音寺」は、画像解説で「同じく上野彦馬アルバムに収載され、Misakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは「野母崎の御崎」円通山観音禅寺である」と説明しながら、なぜタイトルは「野母の観音寺」なのだろう。
「野母崎」は、「野母」と「脇岬」など含む前野母崎町の概念。「野母」と「脇岬」は別の集落である。「御崎(みさき)の観音」と呼ばれた寺だから、タイトルは「脇岬の観音寺」が良い。
長崎から脇岬の観音寺まで、みさき道は「七里」の道である。里程を示した道塚が徳道の三叉路に残る。したがって、距離は「約28km」とされるのが、一般的である。上野彦馬が撮影したとされる明治6年頃でも変わらない。現在の国道でも約30kmある。「20キロ」は直線距離だろうか。もちろん海路もあった。
徳道の里程道塚は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/355