さかい? (1) 藩境石の災難 長崎市小ヶ倉町ほか
国道499号線女神大橋の2つ先が、長崎バス「白崎」バス停である。商店横から山手へ坂段を登って行くと、突きあたりの松尾宅の高い石垣に、「従是南佐嘉領」と刻まれた石柱が組み込まれている。
ここは旧大村領戸町村と佐賀領小ヶ倉村の藩境。長年の藩境紛争が天明7年(1787)解決し、新戸町とともに藩境石が建った。すぐ左の道には水場があり、坂段の中段あたりの竹林内が「白崎台場」だった。長い石柱が今も3本転がり、台場跡はここと言われている。
次は、諌早市唐比(からこ)の天満社。藩境石が神殿の礎石にされている。唐比蓮池の手前、旧街道沿いとなり、唐比交差点から右に入る。鳥居をくぐり境内に入ると、拝殿の奥に神殿があり裏側に回ってみると、「従是西佐嘉領」の長い標石2本が、写真のとおり建物の両端の礎石とされていた。
諌早市郷土館織田先生の調査では、この標石は諌早日記の嘉永四年(1851)十二月の記録になく他から運ばれたもので、後に造られたものか、石の寸法や頭部が記録にあるものと異なるようなので、現在は調査不明扱いとされているらしい。
そういえば諫早・古賀境となる井樋尾の御境石も、昭和57年の豪雨による地崩れで発見され、現在地に建立された。もとは、常盤坂口にあったものと思われる。
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