茂木の散策 (5) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

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茂木の散策 (5) 茂木の風景・史跡  長崎市茂木町

長崎市の茂木地区は、「長崎の奥座敷」ともいわれ、海上交通の要所だった茂木の港を中心に、南北に自然豊かな町が広がる。いずれも天草灘に面し、豊富な漁獲と茂木びわの大産地となっている。
茂木の散策(5)は、茂木地区の中心、茂木町の風景・史跡。長崎遊・通さるく「茂木界隈」コースの順路により、まず一回りしていく。次へ続く。

「長崎茂木びわ」のふるさと看板(茂木入口黒橋近く)、長崎バス茂木バス停、「さつまや」を屋号とする商店、四十四番札所と茂木まちかど茶屋、旧家の町並み、北村西望作・伊達木仙一翁像、長崎枇杷集散所、茂木枇杷記念碑、村山等安別邸跡(旧ビーチホテル跡)、浦見番所跡、旧天草通船突堤?跡、弁天山(旧裳着神社地跡)、茂木保育園、長崎市茂木合同庁舎、長崎天草フェリーターミナルビル、中のもぎたて新鮮市、茂木百年桜植樹地、昔の海岸線の防波堤の名残り(浜ノ浦団地)、茂木植物化石層(長崎県指定天然記念物)

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。

写真  4〜    茂木町新四国八十八ヶ所霊場のいわれ
昭和4年(1929)四国八十八ヶ所霊場巡りの御利益と、町全体が仏の光に包まれることを願い、数名の先達が本四国の各霊場より砂を貰い、それぞれ1番札所の砂は茂木の1番札所へと埋め、霊所とした。札所番号が順路に沿って並んでいないのは、茂木に古くからあった祠や古仏に番号を当てはめたためであると思われる。

写真  8〜    茂木枇杷記念碑
茂木枇杷は茂木町の原産で天保弘化(1830頃)、北浦元木場の三浦シヲが長崎代官に女中奉公中、唐船から枇杷を貰い庭に蒔いたのが起源となる。

写真  9〜    村山等安別邸跡
村山等安は初代長崎代官で熱心なキリシタンで禁教のあと処刑される。慶長年間(1600年頃)村山等安はこの地に豪壮な別邸をたてキリシタン布教の便を計った。元和2年(1616)等安没後茂木庄屋宅となる。明治39年元庄屋宅跡に茂木長崎ホテル(後ビーチホテル)を建設した。昭和59年解体。

写真 12〜    浦見番所跡
寛文5年(1665)茂木海岸に浦見番所を設ける。番所役は村の治安行政を預かると共に問屋等を営み商業を行ったとされる。

写真 14〜    弁天山
旧裳着神社地跡。裳着神社創建の地で今から800年前此所より現在の裳着神社へ移される。末社の伊都岐島神社(弁天社)のみ残る。

写真 21〜    茂木植物化石層
露頭の下部の深さ1.5mの泥岩の層に31科40属52種の植物化石を含んでいる。この化石の地層の地質時代は新世代第三紀新世の終わり頃、1000万年前と考えられている。
明治12年(1879)スウェーデンの探検家ノルデンショルドが此の化石を採集した。これが日本の新世代植物化石の最初の記録となる。国際的にも有名である。昭和57年7月22日、県天然記念物指定。