野母崎の散策 (3) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

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野母崎の散策 (3) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(3)は、高浜の風景・史跡。野々串は前項。高浜は続く。

野中の延命水と碑、高浜の字名由来考掲載の碑文、長崎県立野母崎高等学校、長崎市高浜地区公民館・高浜連絡員事務所、長野観音堂(長野公民館に建て替え)、高浜村役場跡と門柱、高浜農林公園、高浜保育園、正瑞寺(放光山・浄土宗鎮西派)、正瑞寺の地蔵銅像(長崎市指定有形文化財)、正瑞寺墓地の宝篋印塔(ほうきょういんとう)等、正瑞寺墓地から望む町並み、金徳寺(光福山・浄土真宗大谷派)

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。正瑞寺の地蔵銅像写真も同HPから。

写真  1〜     野中の延命水
むかし、大きな松が有ったそうです。松の根元には大きな穴が空いており人一人がたてるぐらいの大きな穴だったそうです。松の近くに湧き水があり、岬の観音様に巡礼に来る人たちの休憩所だったり、戦地に行く兵隊さんをここで送ったりしたそうです。
松の穴は雨露をしのぐ為にも使ったようで、大正3年(1914)巡礼さんの火の不始末で松が燃えてしまい、今ではその形跡も分かりません。

写真  6〜     長野観音堂(観音菩薩、念仏塔)
現在、長野公民館に建てかえられています。以前は髙浜本村に多くの信者がいたそうですが、戦後少なくなったそうです。観音堂には二本のえの木が有りました。一本は観音堂の右後ろ(今は無い)、もう一本は階段付近。子どもたちがよく登って遊んでいたそうで、木から落ちた子どもも数人いましたが、一人も怪我をしなかったそうです。
木製の古い観音像が有ったそうですが、立て替えの時処分されてしまった。建てかえの時、手洗い石とお地蔵様はえの木のそばに移動。

写真 13〜     正瑞寺(放光山・浄土宗鎮西派)
寺伝によると1207年、三浦(深堀)能仲の創設で、中国の唐から来た禅宗の玉谿公大禅師(ぎょくけいしゅうこうだいぜんじ)を開山上人(かいさんしょうにん)とし建てたといわれています。しかし、能仲が地頭となったのは1255年のためその年代が不明である。
深堀文書では正平1年(1346)高浜時綱が正綱に高浜を相続させる時、弥陀安を僧として寺を建てたと記されている。最初は、現在の寺の上(寺屋敷の地名がある)の地に建てられたが、深堀族の殿様が現在の深堀に居城を移したため、荒れ寺になってしまう。
慶長19年(1614)長崎の大音寺を開いた法連社伝誉徹大和尚(ほうれんじゃでんかんてつ)が、当時、野母、蔵徳寺に行き、叔父僧・定誉孝春(じょうよこうしゅん)を尋ね帰る船の上、不思議な夢をみた。
それは荒れた寺の中から光がさし、仏様が現れ、「この寺を復興せよ」との有り難い夢をみ上陸して不思議な夢で見た地形と寺を探して、正瑞寺にたどりつき本尊を拝み、お姿の尊さに感じ、この寺を復興して、浄土宗と改宗して念仏の教えを広めることにした。
浄土宗に改宗し、高浜の人は皆、檀家となっていたが、4代直蓮社廓念和尚(じきれんしゃかくねん)のとき、庄屋との間に争いがおこり檀家を変える騒ぎがあり、信者が少なくなり寺は衰え住職はいなくなった。
慶長19年(1689)三浦八兵衛がこれを憂いて、田地、山林を寄贈して、我が子を大音寺に出家させて僧となし、後に6代 證巖良(しょうがんりょう)和尚となりその後、寺が盛んになった。

写真 15〜     正瑞寺地蔵銅像(市指定有形文化財)
銅造りの地蔵菩薩の像は、中国明末の様式を伝えており崇福寺の像と同じ流れの一つであろう。掌い宝珠を乗せ顔の表情も写実的であり、後頭部や胸部の状態が肉感的小指のつめ等細部にわたり、写実風の特異な表情を持った像である。
江戸時代初期(1674)の鋳銅像で、高さが86.7cmもあり、このような大きなものは近世仏像の中では貴重な作例といわれる。

写真 17      正瑞寺墓地の宝篋印塔(ほうきょういんとう)等
正瑞寺の小高い丘の上には深堀家に関係すると思われる十数基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が有る。高浜小学校を拡張したとき弁天山の麓にあった物を掘り出し移動した。

写真 20〜     金徳寺(光福山・浄土真宗大谷派)
1588年深堀家惣領家18代純賢は、大村藩の領土長崎へ出入りする商船を差し止めた事が海賊行為とみなされ、秀吉の怒りをかい、深堀の領土を没収された。そのころ肥後善行寺の僧が高浜に移り住み念仏をの教えを説き回り、村民は一同こぞってその教えに帰す。
特に当時高浜村2代目庄屋熊甚右衛門は誰よりも信仰が厚く、元和2年(1616)甚右衛門は出家名を祐正と改め一宇を建立し善行寺と号す。その後、長男祐閑を2代目住職にし、次子祐意を引き連れ築町に同じく善行寺を開創した。
しかし、使用人が国禁を犯し善行寺の寺号は取り上げられ廃寺となった。その影響が、本家である高浜にも及び、同じように寺号を取り上げられた。 2代目祐閑は寺号なきを嘆き、新たに寺号を受けることを発願し、広く門徒に助成を求めました。
その当時、新しく寺号を得るには、膨大な資金がかかり住職と門徒の苦労は大変なものであった。その後15年を経て、万治1年(1658)再興が許可され金徳寺に寺号変え今に至っている。交通の便がまだ悪かった時代には黒浜と以下宿に金徳寺の分寺が建てられた。