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太宰府天満宮のクス・ヒロハチシャノキ  太宰府市宰府4丁目 ( 福岡県 )

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太宰府天満宮のクス・ヒロハチシャノキ  太宰府市宰府4丁目

太宰府天満宮の境内にある国指定天然記念物のクス・ヒロハチシャノキ。市指定天然記念物のイチイガシは訪ねていない。太宰府市HPの文化財による説明は、次のとおり。

(国指定記念物)

太宰府神社のクス

所在/宰府4丁目7-1 太宰府天満宮
指定年月日/大正11年3月8日指定
天神の森と呼ばれる太宰府天満宮のクスノキの社叢のうち、巨樹3本が国指定となっています。社殿西側の最大木は樹高28.5m、幹周11.7mで、重量感のある優美な樹形を保っています。本殿後ろに並ぶ夫婦樟は大きく根上がりし、樹高17.1m、幹周10.6mと4.4mを測ります。

太宰府神社のヒロハチシャノキ

所在/宰府4丁目7-1 太宰府天満宮
指定年月日/昭和10年6月7日指定
天満宮の社殿西側にあり、樹高15.3m、幹周約6.5m、根元周囲約9.7mを測ります。大正3年の落雷のため幹の上部は折れ、幹は高さ約10m位まで空洞になっています。本樹はわが国最大のヒロハチシャノキです。

(市指定記念物)

太宰府天満宮のイチイガシ

所在/ 宰府4丁目7-1 太宰府天満宮  
指定年月日/平成24年5月25日
このイチイガシは、社殿の東側、中島神社の裏手にあります。樹高は約20m、幹の南側半分が欠損するものの、幹周約5.4mを測り、同種としては市内最大を誇ります。主幹が欠損せずに残っていれば福岡県内最大級の幹周りを誇っていたものと考えられます。幹の表面はマメヅタなどツル性植物に覆われ、枝は八つ手状に大きく広がり、樹勢は旺盛です。

太宰府天満宮  太宰府市宰府4丁目 ( 福岡県 )

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太宰府天満宮  太宰府市宰府4丁目

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

太宰府天満宮

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市にある神社。旧社格は官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。

天然記念物
・大楠(おおくす) 樹高 33m、樹齢 300年以上
・ヒロハチシャノキ

交通
・私鉄西鉄太宰府線太宰府駅から徒歩5分
・JR鹿児島本線二日市駅から西鉄バスで23分 1時間に1本程度の運行

・九州自動車道太宰府インターチェンジから15分
・九州自動車道筑紫野インターチェンジから20分

太宰府の碇石(蒙古碇石)  太宰府市 太宰府天満宮菅公歴史館 ( 福岡県 )

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太宰府の碇石(蒙古碇石)  太宰府市 太宰府天満宮菅公歴史館

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。碇石は太宰府市宰府4丁目の太宰府天満宮菅公歴史館に展示されている。

太宰府の碇石(蒙古碇石) だざいふ
太宰府市 太宰府天満宮菅公歴史館 碇石(花崗岩) 長222㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB(みさき道人) 館内展示 出土地:不明/やや偏平な印象を受ける碇石で、表面はやや粗いノミ痕を残す 2 C

大宰府条坊跡朱雀大路(立明寺地区)  筑紫野市立明寺 ( 福岡県 )

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大宰府条坊跡朱雀大路(立明寺地区)  筑紫野市立明寺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。筑紫野市の県道112号六反交差点近く、イタリアンレストラン”ポルタータ”駐車場奥に史跡説明板があった。現地一部展示史跡指定地は、筑紫野市HPのとおり立明寺地区とあるが、市史跡の写真は良く見ると、史跡説明板のこの場所である。
筑紫野市教育部文化情報発信課に確認すると、ここに間違いなく、草刈りは6月にしかしないと言う。史跡指定地のため私が勝手に草刈りするわけにはいかず、市へ画像提供を依頼してきたので、とりあえずは、現況写真をそのまま載せる。

大宰府条坊跡朱雀大路(立明寺地区) だざいふ、すざく
筑紫野市 道路 延長約2㎞,幅35.6m 奈良時代 市史跡 市教委 ごく一部(西側溝の一部)のみ現地展示 古代の代表的な大路(道幅は、平城京や平安京の朱雀大路の半分)/ 「大宰府」と標記したのは、歴史的名称と文化財指定名称に従ったため 4 B

筑紫野市HPの「文化財・芸術・歴史」による説明は、次のとおり。 

大宰府条坊跡朱雀大路だざいふじょうぼうあとすざくおおじ[立明寺地区](市史跡)

大宰府政庁が現在の都府楼跡といわれている場所に置かれたのは、我が国が朝鮮半島の白村江において、唐・新羅に大敗した天智てんじ2年(663)の直後です。以降、大宰府は軍事拠点としてだけではなく、九州を統括するための重要な役割を持ち、政治・経済・文化の面でも強く中央の影響を受けていました。平城京や平安京と同じように、碁盤の目のような方形の都市計画がなされ、その規模は南北22条(約2.4キロメートル)、東西(約2.6キロメートル)で、政庁の全面から南北に条坊の基準となる大きな道が設置されました。その道は朱雀大路とよばれ、幅は約35メートルもありました。
この遺跡は、朱雀大路の西側溝の一部にあたる重要な遺跡であるため、指定して恒久的に保存されることになりました。なお、史跡名の立明寺地区は、旧大字二日市内にあった小字名にもとづく名称です。
[『筑紫野の指定文化財』より]
写真 朱雀大路の西側溝の一部
このページに関するお問い合わせ先 担当部署: 教育部 文化情報発信課

釜蓋の道標  大野城市大城 ( 福岡県 )

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釜蓋の道標  大野城市大城

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道574号大城4丁目交差点の南側、インターゴルフクラブへの市道へ入る。場所がわかりにくいので、所在図を載せる。

釜蓋の道標 かまぶた
大野城市 <田中道> 石道標 延享元(1744) 市史跡 市教委/WEB 20mほど移設 「從是、左 うみミち/右 やまえ□」「施主加満ふた衆」/上部に「塞の神」(道の神)を陽刻 3 C

大野小学校のセンダン  大野城市瓦田3丁目 ( 福岡県 )

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大野小学校のセンダン  大野城市瓦田3丁目

大野城市HPの「大野城市の指定文化財」による説明は、次のとおり。県道112号瓦田橋の少し南の路地からか、またはまるとぴあ前交差点から南西の方へ曙町3丁目角を曲がって、大野小学校正門へ行く。 

センダンの木
センダンの木は、大野城市瓦田三丁目800番地の大野小学校の校庭にそびえ立っています。
この木は、1994年(平成6年)3月18日に大野城市の天然記念物に指定されました。センダンの木は、センダン科の樹木で熱帯アジアに広く分布している落葉の高木です。日本では、九州や四国でよく見かける木で、初夏には、小さな紫色の花が房状に咲き、秋には、1センチメートルあまりの黄色い実を付けます。
大野小学校のセンダンの木は、高さが約9.8メートルで、幹周りが、約2.5メートルあり、樹齢は、150年から200年と推定されています。このような大木を見かけるのは、市内はもとより、周辺地域を含めて稀なことです。

大野小学校のシンボルとしてのセンダンの木は、大正3年旌表旗(せいひょうき)受賞を記念して、大野城市の牛頸の山中から移植された老木です。植樹当日は、牛頸小学校の子どもたちも参加しての大がかりな事業であったようです。今は、運動場のまん中にそびえ立っていますが、当時は、運動場と民家の境に植えられたそうです。

しかし、たび重なる校庭の拡張工事によって、現在のように運動場のほぼ中心に位置するようになりました。ところが、台風の被害にあってから、めっきり衰弱してしまいましたので、学校と地域住民で元のような元気なセンダンの木にしようという運動が起こりました。そうして、樹木医による治療を続けた結果、今では、緑の葉をいっぱいに茂らせ、見違えるほど元気になりました。もともと、大野小学校の校庭にセンダンの木を植えるようになったのは、大野小学校の子どもたちがすぐれた素質を子どもの時から磨き育てていくこと、そして、大きな心を持った人間に育つことを願ってだそうです。

文学作品に見るセンダン
センダンは、古くは、楝(あふち)(現代表記では、おうち)と呼ばれ、文学作品の中にも散見し、古い時代から近畿地方でも見られたようです。
「木のさまにくけれど、楝の花いとをかし、かれがれにさまことに咲きてかならず五月五日にあふもをかし」と清少納言の枕草子(三十七)の中に書かれています。
また、「妹(いも)が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに」と万葉集(巻5−798)に詠まれています。

センダンの集い 
大野小学校では、毎年、学校全体で人々を勇気づけてくれるセンダンの木に感謝する「センダンの集い」を実施し、楽しいひとときを過ごしています。また、校庭からは、センダンの木の下で遊びまわる子どもたちの歓声がいつも聞こえてきます。子どもたちはもちろんのこと、一般市民も、200年あまりの歴史を見つめてきた、このセンダンの木を眺め昔を思い起こすとともに、特に夏は、涼しさを求めて木の下に集まり、楽しい憩いの場にもなっています。そして、秋から初冬にかけて、えさを求めて多くの鳥たちが黄色い実をついばんでいる様子をよく見かけます。この貴重なセンダンの木を末永く、みんなの力で保存していきたいものです。

筒井の井戸  大野城市筒井2丁目 ( 福岡県 )

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筒井の井戸  大野城市筒井2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道112号錦町1丁目交差点から東へ入り御笠川の方へ向かうと、すぐ運河を埋め立てた新川緑地公園の通りがある。その中央あたりから上筒井公民館に行く途中のマンション後ろ側に井戸はある。
場所がわかりにくいので、所在図を載せる。所在地は、筒井2丁目7−15あたり。

筒井の井戸 つつい
大野城市 井戸(花崗岩) 径115㎝ 18世紀以前 県有形民俗 市教委 江戸期には木枠?/住宅地の真ん中にゴミ集積場のようにフェンスで囲まれている 「木の筒を以って井韓(いげた)とす」との記載が貝原益軒の書にある 4 C

那珂・御笠堀川・跡  大野城市筒井2丁目 ( 福岡県 )

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那珂・御笠堀川・跡  大野城市筒井2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道112号錦町1丁目交差点から東へ入り御笠川の方へ向かうと、すぐ運河を埋め立てた新川緑地公園の通りがある。
昭和48年頃の古写真は、筑紫野市HP「ちくしの散歩」一覧54から

那珂・御笠堀川・跡 なか、みかさ
大野城市 新川緑地 <運河> 約850m(緑道) 宝暦3(1753) 中間市史・中p304-305 流入する水量が少なかったため運河の機能を果たせず廃止→埋戻し→公園化 寛文4(1664)に福岡藩が計画し、その後着工・中断していた「筑後川と博多を結ぶ」運河⇒計画再燃、寛延2(1749)着工、宝暦3に竣工 3 B

曙町の郡境石(那珂・御笠郡境石)  大野城市曙町2丁目 ( 福岡県 )

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曙町の郡境石(那珂・御笠郡境石)  大野城市曙町2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道112号雑餉隈町と錦町の境に建っていた旧日田街道の郡境石。現在は大野城市役所別館3階・歴史資料展示室に移設展示している。
跡地には、場所を明示するための石柱と説明板を埋め込んでいる。ROYAL CHESTER FUKUOKA手前。

曙町の郡境石(那珂・御笠郡境石) あけぼの
大野城市 大野城市役所別館3階・歴史資料展示室<日田街道> 境界石(花崗岩) 高118㎝,幅29㎝,厚26.5㎝ 文化14(1847) 市史跡 市教委/WEB 移設/四周を鉄パイプで補強 (正面)「従是、西 那珂郡/東 御笠郡」/那珂郡〜御笠郡 3 C

水城跡(小水城)  大野城市・春日市・太宰府市 ( 福岡県 )

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水城跡(小水城)  大野城市・春日市・太宰府市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道31号大野城市小水城交差点の市道脇に史跡案内板がある。

水城跡(小水城) みずき
大野城市・春日市・太宰府市 土塁(濠) 長1.2㎞,幅15m (基底),高7m 天智3(664) 国特別史跡 文化財指定書 保存状態は良好 わが国を代表する大土塁(唐と新羅の攻撃に備えて築かれた防衛施設)/海側に幅60mの濠が造られていたことから「水城」の名の所以/主要部分は太宰府市に 2 B