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青の洞門  中津市本耶馬渓町樋田 ( 大分県 )

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青の洞門  中津市本耶馬渓町樋田

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道212号中津市本耶馬渓町の耶馬渓橋の上流川岸にある。県道44号トンネル歩道側に入口がある。

青の洞門

青の洞門(あおのどうもん)は、大分県中津市本耶馬渓町樋田にある洞門(隧道、トンネル)である。

概要
名勝耶馬渓に含まれ、山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する。全長は約342mで、そのうちトンネル部分は約144m。大分県の史跡に指定されるとともに、耶馬日田英彦山国定公園の域内にも含まれる。晩秋の紅葉時期は特に観光客が多い。
地形の関係上、一部では幅員が狭いため信号を使った片側交互通行が行われている。

歴史
1750年(寛延3年)に第1期工事が完成し、最終的に開通したのは1763年(宝暦13年)であった[1]。
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。
1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている[1]。
1854年(安政元年)から1856年(安政3年)にかけて制作された歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。
1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて陸軍日出生台演習場への輸送路整備のために大改修が行われ、車両が通過できるよう拡幅された。この工事の結果、完成当初の原型はかなり失われたが、明かり採り窓等の一部に手掘りのノミの跡が残っている[1]。

恩讐の彼方に
1919年(大正8年)に発表された菊池寛の『恩讐の彼方に』は、禅海和尚の逸話を元にして書かれたものである。ただし、この小説では、隧道は「樋田の刳貫」と呼ばれ、「青の洞門」という名称は用いられていない。また、主人公の僧の名は了海とされている[2]。この小説とは別に、1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』でも教材として取り上げられ、これらによって青の洞門は広く世間に知られるようになった[1]。

名称
完成した当時は「樋田の刳抜」(ひだのくりぬき)と呼ばれていたが、江戸時代末期から大正時代にかけて、「樋田のトンネル」や「青の洞門」と呼ばれるようになったとされる。 1906年(明治39年)の観光案内書『耶馬渓案内記 : 天下第一の名勝』では「山陰鑿道(さんいんさくどう)又洞門と呼ぶ」と紹介[3]し、洞門を以降で略語として用いている。同書で青地区については「靑(あを) 又靑生(あをふ)と云ふ」「頼翁再遊の帰途即臘月十二日含公と共に一宿せし地(記文 阿保村(あほむら))なれども今其宿舎詳ならず」[4]と頼山陽が訪問したときの故事を紹介している。 1913年(大正2年)の観光案内書『耶馬渓案内記』では伝承を紹介するなかで「之より桟道を樋田の刳貫(ひだのくりぬき)と称し交通頗る便となった」と記し[5]、「耶馬渓靑洞門 Aonodo-mon at Yabakei.」と書かれたトンネル入り口の写真を紹介している[6]。 1914年(大正3年)の『山水随縁記』には「進んて耶馬渓の入口たる靑の洞門に至れは、今尚ほ有名なる樋田の隧道を見む。」とある[7]。 「青の洞門」が用いられた他の初期の例としては、1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』や、1942年(昭和17年)の大分県の史跡指定がある[1]。

耶馬溪橋  中津市本耶馬溪町 ( 大分県 )

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耶馬溪橋  中津市本耶馬溪町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道212号中津市本耶馬渓町の耶馬渓橋下流の旧道に架かる。

№431  耶馬溪橋

本耶馬溪町大字曽木-樋田
山国川
橋長:116.0m  橋幅:4.1m  径間:12.8m  拱矢:3.0m
8連アーチ
架設:大正12年
本耶馬溪町役場より国道212号線を北へ700m、左手に架かっています。

耶馬溪橋(オランダ橋) 大分県指定有形文化財
「この橋は、山国川にかかる観光道路、生活道路として大正9年から12年にかけて架橋されたもので、長崎県に多い石積方式であるため通称オランダ橋とも呼ばれている。架橋工事は、地元の岩渕万吉氏が請け負い、地元の石工、石材を使用し架橋された。その工事に要した費用は曽木地区の村山21人の共有林を売却しそれに当てたもので、その額は4万円と言われている。現在、わが国にはこれだけの規模の石橋はなく、8連、橋長116mは共に日本一である。架橋以来、永い間風水害に耐えて来たこの橋であるが、昭和19年の大洪水で大きな被害を受け橋面の高欄等が流失し、コンクリートにおいて復旧されていた。しかし、数年前より橋体にひび割れ等が判明し、通行上非常に危険な状態であったため平成10年から11年にかけて当時の写真等を参考に補強、修復されたものである。
(橋歴)
一、大正9年11月着工 同12年3月竣工
一、昭和19年の水害で橋面が流失したがその後直ちに復旧する。
一、昭和56年3月県指定の有形文化財となる。
一、平成10年2月 補強修復工事着工
一、同11年3月 竣工」

大悟法地区条里遺構  中津市大悟法地区 ( 大分県 )

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大悟法地区条里遺構  中津市大悟法地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して、前記事の沖代地区条里・跡の展望ポイント入口を過ぎ、高台の大貞交差点まで進む。この先の北東一帯が大悟法地区である。

「大悟法地区条里遺構」は、中津市教育委員会パンフフレット「古代のドアを、開けてごらん!」に表れず、具体的な説明のあるものが見当たらない。大貞交差点角の薦神社前にファミリーマート大悟法店があり、ここの裏側がまだ広大な田園地帯となっていた。
遺跡ウォーカーHPの航空写真には、JA大分中津支店や葬祭プリエールなかつなど建物が写されており、このあたり一帯の田園のことだろう。
地区全体を上から見渡せる場所はなかったので、田園の中央付近に立ち、北東と南西方向を写してみた(写真5〜10)。再訪した日(11月18日)はあいにくの小雨で、遠くの山が確認できなかった。

大悟法地区条里遺構 だいごぼう
中津市 条里遺構 8世紀頃 市教委 一部圃場整備を受けている 小規模な条里 3 C

沖代地区条里・跡  中津市沖代地区 ( 大分県 )

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沖代地区条里・跡  中津市沖代地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して永添交差点先のスーパー大栄を過ぎて進むと、県道左側歩道に古代豊前道跡の史跡説明板がある。この中に「沖代地区条理跡」の図もある。

この項は、中津市教育委員会パンフフレット「古代のドアを、開けてごらん!」10〜11頁・奈良時代の風景を残す「沖代地区条里跡」663号線)」を参照。
http://www.city-nakatsu.jp/doc/2013041600083/file_contents/1.pdf
遺産リストには、すでに中津市教育委員会提供の航空写真が掲載されているが、私は同パンフレットが展望ポイントとする豊寿園敷地内から、沖代地区条里・跡を撮影してみた。

沖代地区条里・跡 おきだい 
中津市 条里遺構 一辺109m四方 8世紀初頭 市教委/WEB 旧状を保持/沖代条里展望施設を設置 沖代平野全域の広大な条里(県内最大級) 1 A

写真5〜8は、2015年10月25日再訪した際の状況を追加した。

豊前道・跡  中津市高瀬〜野依 ( 大分県 )

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豊前道・跡  中津市高瀬〜野依

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して永添交差点先のスーパー大栄を過ぎて進むと、県道左側歩道に古代豊前道跡の史跡説明板がある。
資料は、中津市教育委員会パンフレット「古代のドアを、開けてごらん!」8〜9頁・古代のメインストリート「古代豊前道(県道万田四日市線・663号線)」から。ほぼ同じ地点から県道663号の現況写真を撮影した。
http://www.city-nakatsu.jp/doc/2013041600083/file_contents/1.pdf

豊前道・跡 ぶぜん
中津市 (高瀬〜野依) 道路 8世紀頃 市教委/現地解説板 一部県道663・一般道として利用(条里と平行しており、官道の直線性が保持) 2 B

相原の道標(湯屋の辻の道標)  中津市湯屋 ( 大分県 )

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相原の道標(湯屋の辻の道標)  中津市相原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道663号へ左折して700mほど進んだ鶴居小学校先のハートフル動物病院の対面駐車場角にこの道標が立つ。
刻字に関連したその延長線上の県道1号「高瀬の道標(高瀬の辻の道標)」は、前記事を参照。

相原の道標(湯屋の辻の道標) あいはら
中津市 相原・交差点 石道標 江戸期 市教委/WEB 昭和60年頃、水路改修工事中に上半分だけが発見→中津市史民俗資料館→平成23、相原の交差点に移設・復元 (正面)「從是南 玖…」、(右面)「從是東…」、(左面)「從是西…」、(裏面)「從是北…」 4 C

高瀬の道標 (高瀬の辻の道標)  中津市高瀬 ( 大分県 )

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高瀬の道標 (高瀬の辻の道標)  中津市高瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR中津駅前から国道212号に入り、歩道橋のある新万田交差点まで行く。県道1号へ右折、すぐの県道110号を通り過ごして進むと、次角の左手民家前にこの道標が立つ。
次の記事とする県道663号「湯屋の道標」と刻字で関連があり、その延長線上の道標のため確認に訪ねた。

高瀬の道標 (高瀬の辻の道標) たかせ
中津市 <勅使街道・日田街道> 石道標 市史跡 江戸期 市有形民俗 市教委/WEB 原位置/中央で水平に折損→修復 (正面)「從是南 日田 玖珠 ミ・チ」、(右面)「從是東 豊後 宇佐 ミ・チ」、(左面)「從是西 小倉道」、(裏面)「從是北 中津道」 1 C

七辻十三曲がり  中津市上宮永町 ( 大分県 )

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七辻十三曲がり  中津市上宮永町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。「七辻十三曲がり」とは中津城に続く中津市城下内の街道道だが、さてさて、私にはどの路地のことか、まったくわからない。中津市教育委員会が平成25年10月実施した官兵衛ウォークHPに、黄囲線のとおりの写真があった。
写真の状況から現地を探すと所在図の左下のとおり、県道110号の西裏通り上宮永町の貴船神社近くと判明した。屋敷・レンガ塀・木立・水路の状況が合う。近所に聞くと、この通りは「馬場道」と呼んだ昔の街道道だと言うから、このあたりに間違いないだろう。教委は土曜休み、これ以上の確認調査はしなかった。

七辻十三曲がり ななつじ
中津市 <豊前道> 道路 正保以前(〜1644) 市教委 住宅地化/道の形は残る/若干拡幅 城部外辺の防備を考えて作られた鍵手状の街道構造→普通の鍵手なら2回屈曲するだけだが、13回屈曲するのは他に例がない 2 A

(2015年11月3日 追 記)
遺産サイトから連絡があり、中津市教育委員会へ照会したところ、当時の「七辻十三曲がり」とは、地図の赤線どおりということなので、図を追加した。これに基づき10月25日現地を再訪し、宮永の貴船神社あたりから、レンガ塀屋敷先の曲がり角まで、馬場道の曲がり具合を写してきたので、写真を後ろに追加する。

中 津 城  中津市二ノ丁本丸 ( 大分県 )

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中 津 城  中津市二ノ丁本丸

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

中津城

中津城(なかつじょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた(中津藩も参照)。

構造
周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。

中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。

天守
天守の存在については不明である。江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。

堀・石垣
中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。

城下町
扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛に因んだ「姫路町」や「京町」等の町名が残る。

歴史
天正15年(1587年) – 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡12万3000石(一説には16万石・その後の検地で18万石となる)を与えられる。当初、馬ヶ岳城に入城した。
天正16年(1588年) – 黒田孝高(如水)は、領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めた。
同年-熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。
慶長5年(1600年) – 黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。
同年 – 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。
慶長7年(1602年) – 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。
元和7年(1621年) – 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。
寛永9年(1632年) – 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。
享保2年(1717年) – 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。
安政3年(1856年) – 海防強化のため、海から城への入口に当たる山国川河口(現在は支流の中津川河口)の三百間突堤に砲台を建設。
文久3年(1863年) – 本丸に松の御殿を新築する。この御殿は小倉県、福岡県、大分県の中津支庁舎として転用された。
(以下、略)

模擬天守
昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた。
奥平昌信が中心となって構想し、小倉城や名古屋城などの天守外観の復興に携わった、東京工業大学教授の藤岡通夫が設計を手がけた。 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、外観5重内部5階(5重5階)構造で高さは23メートルある。

模擬天守は中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織、徳川家康からの軍法事書など古文書類が展示されている。
同時に、模擬天守南に望楼型の二重櫓も建てられているが、かつてこの場所には南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させている姿が写る古写真がある。

利用情報
模擬天守(奥平家歴史資料館)入館料金 大人は高校生以上が400円 子供は中学生以下まで200円
開門時間午前9時から午後5時
休館日年中無休
所在地〒871-0050 大分県中津市二ノ丁本丸

アクセス
JR九州日豊本線中津駅より徒歩15分

参考文献
西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 2000年 441−442ページ

泉神社の湧水  宇佐市辛島 ( 大分県 )

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泉神社の湧水  宇佐市辛島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。宇佐市街の中心部、国道10号辛島交差点北角に泉神社はある。湧水は宝池となっている。

泉神社の湧水 いずみ
宇佐市 (辛島) 湧水 応永30(1423)? WEB/現地解説板 平成初めに下水道工事で水脈が切断し湧水量が減少 『宇佐宮造営日記』の応永30年6月18日の項に,和泉御社の池から17日に霊酒が湧き出したという記載がある/四周を石護岸で囲まれ湧水池内に石の小さな祠がある 2 B