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中城川の水門群・跡  日田市豆田町ほか ( 大分県 )

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中城川の水門群・跡  日田市豆田町ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。私の現地写真は、豆田町の中城橋から中城川水路を遡り、慈眼山西の花月川取水口までを撮影している。

中城川の水門群・跡 なかじょう
日田市 <日田川通船> 運河 文政9(1926) 市教委 堰の痕跡を留めない 日田玖珠郡内の天領の年貢米の輸送は、関村まで山越えの道を馬で運んでいた→下記「小ヶ瀬井路」の完成が契機となり、西国筋郡代・塩谷大四郎正義が豆田町の豪商・廣瀬久兵衛と草野宗内に命じて中城川通船を可能にするような工事に着手、翌文政9に完成/中城川通船にあたっては、数百mごとに計9ヶ所の堰を設け、「最初の堰を閉じて水を貯め、次の堰を閉じて最初の堰を開くと十分な水量のまま舟が下流に流れ…」という方式を採用したとされる→9ヶ所に離散的に設置された単独の堰を閘門と考えることは原理的におかしい→連続閘門の場合 各扉の間隔は木製の場合10m前後が限界であるし、離散的な堰の間をもし「閘室」と考えると、仮に水位差50㎝、堰間距離300m、水路幅1mとすると1回の開け閉めに150㎥の水を必要とするが、これだけの量の水を短時間で「閘室」内に供給し、かつ、木製扉で水密性を維持することは物理的に不可能(管理者・馬場の意見)→結果的に、恐らく、ある程度水位を高めておいて、その水位差で押し流す程度の役割しかなかったのではないか→遡上する場合はこの方法では機能しないので、荷下ろしした後なので曳き舟をしていたと推測される(管理者・馬場の意見) 5 A

日田の町並み  日田市豆田町一帯 ( 大分県 )

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日田の町並み  日田市豆田町一帯

文化庁「文化遺産オンライン」による説明は、次のとおり。私は中城川に用件があり立ち寄った。

日田市豆田町(商家町 大分) ひたし まめだまち(しょうかまち おおいた)

その他 / 安土・桃山 / 大分県
大分県西部に位置する日田市豆田町は、近世初期に建設された城下町から商家町へと変遷した。寛永16年
(1639)に幕府の直轄地となってからは、九州における政治・経済の中心地として発展した。南北2本の通りと東西5本の通りによる整然とした町割を残し、各時代で特色ある多様な建築様式は、変化に富んだ町並を形成している。

加々鶴新道・跡  日田市高井町川下 ( 大分県 )

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加々鶴新道・跡  日田市高井町川下

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。かんぽの宿日田を出発し、日田バイパス国道210号により西へ日田市高井町川下の加々鶴トンネルまで行く。
日田側のトンネル入口約300m手前の街道登り口に、高さ1.5mほどの「加々鶴新道碑」(文化2 (淡窓)廣瀬簡撰、雲霞道人書)が立っていたはずだが、地元に聞くとどこかへ移設されていて見当たらない。
http://hizou.30maps.com/map/65504
石畳道はトンネル反対側からの道にわずかに残っているらしいが、もう荒れても歩けない道になっているという。筑後川側のトンネル外となる歩道を進むと、出口先に宗像神社があった。

加々鶴新道・跡 かかづる
日田市 (高井町川下) 道路・石畳道 文化2(1805) 市教委 わずかに痕跡が残る 日田代官・羽倉權九郎が、石井村の豪農・樋口安左衛門謙言に命じ、費用も支給して新道を開設→嘉永6(1853)に隈の田中町の豪商・山田常良が石畳に改修 4 B

小石原焼と小鹿田焼の里(2) 福岡県東峰村・日田市 ( 大分県 )

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小石原焼と小鹿田焼の里(2)  福岡県東峰村・日田市

ゴールデンウイークの5月4日(月 みどりの日)、東京から帰省中の長男を熊本まで送りがてら、妻が福岡県東峰村の小石原焼民陶むら祭と、日田市の小鹿田焼の里へ。太田哲三窯と高取窯を主に見た。写真は妻撮影。

大 肥 橋  日田市夜明 ( 大分県 )

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大 肥 橋  日田市夜明

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道386号夜明ダムの先、夜明三叉路東側、大肥川に架かる現橋のすぐ上流に架かっている。

№1,049  大肥橋

日田市夜明 大肥(おおひ)
大肥川
橋長:27.6m  橋幅:4.6m  径間:22.5m  拱矢:4.7m
架設:明治32年(1899)
夜明三叉路東側、大肥川に架かる現橋のすぐ上流に架かっています

大肥橋
「この橋の上流約1.5Kmに位置し、参勤交代の街道でもあった茶屋の瀬に架けられた歌詠橋は、石造アーチ橋で、当時は名橋として評判も高く、広瀬淡窓の詩にも詠われたものであった。しかし惜しいことに、翌嘉永三年の洪水によって流失し、長い間多くの人々は困り果てていた。
その代わりとして明治三十二年に完成されたこの大肥橋は、セメントやコンクリートの無かった時代に拱矢比4.8という日本でも珍しい扁平な石造アーチ橋であって、余程熟練した石工の手によって作られたものであろう。以後約80年間年々通過する自動車が増加し、今では1日1万台を越す交通量となり、その上1台1トンもなかった車が現在では20トンも越すように大型化してきた。この莫大な荷重にもめげず、又洪水や地震にもびくともせず今日までその役目を果たしてきたのである。
石造アーチ橋はもはや作られなくなってしまった現在、私達はこの美しい石造アーチ橋を何時までも大切に保存してゆきたいものである。」 案内板より