佐賀県」タグアーカイブ

東古賀遺跡  佐賀市大和町大字久池井字東古賀 ( 佐賀県 )

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東古賀遺跡  佐賀市大和町大字久池井字東古賀

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。遺跡の場所は分布図(佐賀市教育委員会発行資料から)のとおり。
現地に遺跡説明板はないようである。佐賀整肢学園の後ろ側あたりを写してきた。。

東古賀遺跡の古道・跡 ひがしこが
佐賀市 道路 古代 古代官道・西街道肥前路p35 現況は雌竹の繁茂する荒地で道路痕跡は見えないが、低丘陵を東西に分断する切通しや窪地や帯状の水田が見られる 4 C

鍵尼遺跡  佐賀市大和町大字尼寺字鍵尼 ( 佐賀県 )

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鍵尼遺跡  佐賀市大和町大字尼寺字鍵尼

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。遺跡の場所は分布図(佐賀市教育委員会発行資料から)のとおり。
現地に遺跡説明板があり、「肥前西海道跡」という現在の同じところを写してきた。切通し跡は、訪ねていない。

鍵尼遺跡の古道・跡1 かぎあま
佐賀市 道路 長500m 古代 古代官道・西街道肥前路p27 調査地点およびその東西に水田および畑中に直線状の帯状窪地が残る→道路痕跡と推定 3 C

鍵尼遺跡の古道・跡2 かぎあま
佐賀市 道路 幅12.5-16m 古代 古代官道・西街道肥前路p27 鍵尼遺跡の古道跡1の北側に位置する 3 C

鍵尼遺跡の切通し・跡 かぎあま
佐賀市 切通し 比高差0.8-1.0m 古代 古代官道・西街道肥前路p27 鍵尼遺跡の古道跡1の南側に位置する 3 C

とうれぎ土塁  基山町宮浦 ( 佐賀県 )

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とうれぎ土塁  基山町宮浦

現地説明板は、次のとおり。JR基山駅から基山町役場へ向かうと、県道300号に入る玉虫交差点を曲がったすぐ先の左側にある。
関屋土塁跡は、JRと国道3号線に寸断され、今は若宮神社下に標識しかないそうだ。

とうれぎ土塁
本土塁は、基肄城及び基肄郡に関連した防衛施設として築堤されたものと考えられている。
昭和50年度の調査で、この土塁より版築状にかためられた土層が確認されたことから、宮浦字宿に所存する関屋土塁との類似性が認められ、ほぼ同時期の築堤と考えらる。
なお、本土塁は、向平原丘陵と千塔山丘陵の間約350メートルを結んでいたと思われる。
昭和60年3月    基山町教育委員会

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストのデータに、次のとおり登載された。

とうれぎ土塁・跡
(三養基)基山町 土塁 天智3(664)? WEB/WEB(みさき道人) 保存状態は良好 大宰府防衛のために築かれた基肄城の関連施設/水城と似ている 2 B

背振山系の肥前、筑前国境石群  みやき町蓑原 ( 佐賀県 )

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背振山系の肥前、筑前国境石群  みやき町蓑原

背振山系には、多数の肥前、筑前国境石が確認されている。私が訪ねたのは、佐賀県みやき町中原橋交差点から県道136号により七曲峠へ向かい、途中から東の石谷山方面への九州自然歩道に入る。約1時間歩いて三領界峠(三国峠)手前まで行って引き返した。
私がこの区間で見た国境石は、4つ。いずれも自然歩道沿いの北にあり、自然石に「従是北筑前國」と刻む。(脊振はどうやら肥前建立のようです)とあり、自然歩道から少し離れた国境石の位置を現県境とすると、いずれも佐賀県みやま町に所在し、肥前國が建てた?国境石と思われる。

この国境石は、HP「筑前国境石散歩」背振山群の項、その内No.13〜21(三領界峠〜七曲峠)を参照。
http://www.geocities.jp/chikuzensakaiisi/page138.html
私が撮影した写真は、歩いた方向順に、No.20、No.19、積石、屏風石、No.17、No.16となる。No.18(大きな2連の石に文字あり。 大きな自然石に小さく文字が書いてあります。)は、資料を持参してなく、どうやら見落としている(9枚目写真の大石後ろ側の二連の石)。

あと坂本峠へ出て福岡県那珂川町五ケ山へ下ったが、佐賀橋上流の国境石垣などは、五ケ山ダム建設と周辺国道385号など付け替え工事のため、現地へ立ち入れなかった。

横武クリーク公園のクリーク  神埼市横武 ( 佐賀県 )

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横武クリーク公園のクリーク  神埼市横武

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。神埼警察署から県道48号により西へ向かう。JR長崎本線と交差した先の西郷交差点に案内標識があり、左折して行く。
横武クリーク公園は、横武城跡である。アーチ橋が3橋ほどあるが、すべて鋼鉄に板張り。

横武クリーク公園のクリーク よこたけ
神埼市 横武 クリーク 江戸期? WEB 公園化 干満の差の大きい有明海沿岸特集の農村集落の形態 2 B

城原川の百間土居  神埼市城原 ( 佐賀県 )

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城原川の百間土居  神埼市城原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。神埼から県道21号を北上。飯町交差点から左折して仁比山保育園の方へ向かうと、その先の城原川に朝日橋がある。現地説明板がここの土手に建っている。

城原川の百間土居 じょうばる、ひゃっけん
神埼市 城原川 石堤防 長約200m 寛永11(1634)以前 現地解説板 石がほとんど見えない 成富兵庫茂安/農地開発のため、城原川の流路を西行させる目的で築かれた石垣積みの堤防 2 B

三千石井堰・城原川下流部の草堰群  神埼市城原ほか ( 佐賀県 )

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三千石井堰・城原川下流部の草堰群  神埼市城原ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。神埼から県道21号により仁比山公園下まで行く。西側を流れる城原川の川岸へ出て、川沿いにJR長崎本線のあたりまで下った。所在図のような井堰を見た。写真3,4が「殿の井戸」だが、全面改修されているため対象外。
写真8〜11が「三千石井堰」。「三千石頭首工(佐賀県)」は、九州農政局HPから。

三千石井堰 さんぜんごく
神埼市 城原川→横路川 石取水堰 長35m 江戸初期 WEB 原形をほぼ保つ 川久保の邑主・神代氏の采配により荒地への導水のため築造/成富兵庫の築造と記した資料もあるが関与の程度は不明/用水の取水口に天狗の鼻と象の鼻を設けたかのように解説しているWEBサイトもあるが、何でも成富兵庫や石井樋と結びつける風潮は感心しない 1 B

城原川下流部の草堰群 じょうばる
神埼市 城原川 取水堰 江戸期? 岩屋隆夫 当初形態を保持しているかどうかも不明 木杭列の間に割石が並べてある 2-4 C

蛤水道  神埼郡吉野ヶ里町蛤岳 ( 佐賀県 )

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蛤水道  神埼郡吉野ヶ里町蛤岳

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。私は坂本峠や蛤岳横断線からの林道が通行止めだったため、国道385号から分岐した林道蛤岳横断線で犬井谷登山口まで行き、蛤岳を越して東側山腹にある蛤水道を訪ねた。
蛤水道は長さ約1km。写真のとおり上流から下流まで往復。再び蛤岳に登り犬井谷登山口へ戻ったが、このルートは少なくとも3時間を要する。

蛤水道 はまぐり
(神崎)吉野ヶ里町 蛤岳の井手→田手川 用水路 長1.26㎞,幅1.3m 元和年間(1615-24) 選奨土木遺産 WEB C改修 成富兵庫茂安/余った水を那珂川に流す野越が数ヶ所に設けられた(福岡の水を佐賀で使わせてもらっているため、余った水は福岡に戻す配慮)⇒洪水対策の「野越」と同じ用語を余水吐にも用いている 4 B

「土木遺産in九州-蛤水道-」一般社団法人 九州地域づくり協会による説明は、次のとおり。絵図はHP「蛤水道」から。

蛤水道  はまぐりすいどう  吉野ヶ里町

所在地・完成年等 施設の形式・諸元
●所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町 蛤岳 田手川
●完成年:1626年
●設計者:成富兵庫茂安
●施工者:成富兵庫茂安
●管理者:吉野ヶ里町
●文化財指定等:
●水路
●延長:1260m
●幅:約1.3m
●高さ:約1.0m

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
蛤水道(はまぐりすいどう)は、江戸時代初期に鍋島藩家老の成富兵庫茂安が脊振山系の中腹に築いたもので、それまで福岡側へ流れていた大野川の水をため池に貯め、約1560mの長さの水道を作り、佐賀県側へ流れる田手川へ導水したものです。途中に数カ所の野越しと呼ばれる横越流堰を設け、余った水は福岡県側へ流れ落ちる仕組みとなっています。九州自然歩道の永山峠が蛤水道の落ち口であります。水道の途中には成富兵庫茂安の水功碑が祀ってあります。
この水道は、当初は石造りでしたが、現在はコンクリート製で長さ約1kmとなっています。
毎年、5月上旬に三田川町・東脊振村(2006年に合併して吉野ヶ里町)が付近の清掃を兼ねて「兵庫祭り」を行い彼の偉業を称えています。

蛤 岳  神埼郡吉野ヶ里町 ( 佐賀県 )

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蛤 岳  神埼郡吉野ヶ里町

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。東背振IC近くから国道385号に入り東背振トンネルを目指す。道の駅吉野ヶ里を過ぎ登って行き、途中から左に標識のある林道蛤岳横断線に入る。
ループ橋のところの蛤水道へ向かう林道入口は通行止めだったため、横断線をそのまま進み、犬井谷の蛤岳登山道入口まで行った。
ここから蛤岳までは、歩いて約1時間の行程。背振山からの九州自然歩道と出合い、蛤岳まで登る。写真のこの往復の様子。目的はそもそも山頂東側山腹にある蛤水道の見学である。これは次記事で報告する。

蛤 岳

蛤岳(はまぐりだけ)は、日本南部の九州・佐賀県北部にある、脊振山系に属する標高862.8mの山である。福岡県との県境近くの神埼郡吉野ヶ里町北部にある。山頂には直径3〜4mほどの蛤岩と呼ばれる巨石があり、これが東西に割れて蛤が殻を開いた様子に見えることから名付けられたと言われている。

蛤水道

山腹には江戸時代初期に佐賀藩鍋島氏の家臣、成富茂安が築造した蛤水道が現存し、田手川水系へと豊かな水を佐賀方面に流し続けている。
蛤水道は蛤岳から筑前方面に流れていた水を肥前側へ通す人工水路であり、1626年に築造された[1]。蛤岳の東側中腹にため池と1.5km程の導水路を築造し、南方の田手川に落ちる谷筋まで導水する仕組みである。「野越し」という一種のオーバーフロー設備が特徴であり、多雨期に水路が溢水して崩壊しないよう工夫されたものである。
2010年には土木学会選奨土木遺産に認定された。

徳富地先の荒籠  佐賀市諸富町徳富 ( 佐賀県 )

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徳富地先の荒籠  佐賀市諸富町徳富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道208号の大川橋と諸富橋の間が大中島(佐賀市諸富町徳富)である。大中島の北西部で見た島最大の荒籠。これだろうか。
大中島を一周してあと一つは、北東部にあった岸壁に埋められた最後の写真の先端部。30mはない。

徳富地先の荒籠  とくどみ
佐賀市 筑後川(大中島) 石水制 長約30m 江戸中期? 筑後川河川事務所 保存状態良好/基部の護岸は恐らく近代の補強 筑後川の荒籠群(小型) 2 C

5〜7枚目は、2015年3月28日に再訪した「徳富地先の荒籠」写真。8枚目は、対岸の諸富町道海島側に見える荒籠。