月別アーカイブ: 2015年3月

高田町濃施の道標  みやま市高田町濃施 ( 福岡県 )

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高田町濃施の道標  みやま市高田町濃施

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。JR渡瀬駅近く、国道208号起路免喜交差点から西の楠田川に出る。楠田川に沿う三軒家集落は、三池街道のうちでも大変賑わった所。柳川橋の川岸に街道の旧橋の場所から移設した追分道標が建っている。

高田町濃施の道標 たかた、のせ
みやま市 (三軒屋)<三池街道> 石道標(凝灰岩) 高90㎝,幅22㎝,厚25㎝ 江戸期? 市有形民俗 WEB 移設/基部は大きなCブロック (正面)「や奈かわ道」、(右面)「セたか道」 2 C

高田町下楠田の里塚石 (三里)  みやま市高田町下楠田 ( 福岡県 )

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高田町下楠田の里塚石 (三里)  みやま市高田町下楠田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。西鉄渡瀬駅の北方、国道208号沿い福正寺の入口にある。

高田町下楠田の里塚石 (三里) たかた、しもくすだ
みやま市 福正寺<三池街道> 一里石 高140㎝,30㎝角 1630年代以降 WEB(みさき道人) 移設/中央で斜めに折損→修復 (正面)「三里」/同上 2 C

(以下は、ブログ「千寿の楽しい歴史・みやま市高田町の有形民俗文化財」による説明)
…下楠田渡瀬南町の福正寺の参道入り口に「三里石」の石柱がある。地上高さ140㎝、縦横各30㎝余の砂岩角柱で、正面上部に「三里」、下部に「江浦道」と陰刻してある。また、地上80㎝余の箇所で折れているものの、修復されて昔の面影をとどめている。
文献によれば、「倉永の市場山下の少し北の位置に、三里石あり」と記されているので、街道の三里石は、現在地より南の隈川のほとりに建てられたのではなかろうか。

鎮守明神祠堂の造営由来  佐世保市赤崎町庵崎 ( 長崎県 )

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鎮守明神祠堂の造営由来  佐世保市赤崎町庵崎

佐世保市高橋輝吉氏から送付された。佐世保市赤崎町庵崎の「鎮守明神祠堂の造営由来」碑文と、高橋氏稿「同石文を読んで」は、次のとおり。祠堂と石碑所在場所は、軍用タンク群がある航空写真のあたりだろう。

祠堂造営由来
大正七年七月ヨリ庵崎ニ於テ海軍ノ工事始マリ職員職工二百余名此ノ地エ居住由ツテ一同記念ノ為メ鎮守明神ノ祠堂ヲ造営シ恵比須神ヲ合祠ス
大正十年四月十日

高橋輝吉氏稿  「鎮守明神祠堂造営由来の石文を読んで」

軍の仕事。海軍は秘密の事が多い。事に此の地での仕事は、僻地の所であった。重油タンクを「コンクリート」で造る事で、大変だったと思う。さて、工員の方は、どこからどうやって来たのかなー。三年有余。現在はウラ道より行けるが、当時は海からだけです。
海軍式で、五?分前となー。体も一回り大きな人が。後はどうなったのかなー。コンクリートだけで重油タンクの造り。並の仕事ではない。当時は「ミキサー」なんてなく、手造りだったと思う。針尾無線塔も人海造りだ。同じような事かなー。
今にして思えば当地方、地震帯がなく完成した。工事関係者は安堵にて、石文の事となったと思うが、一つ洗脳の事もあったと思うので、恵比須神と二つの神を祀ったと思う。