月別アーカイブ: 2011年5月

長崎外の古写真考 目録番号:6694 九段坂と燈明台(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6694 九段坂と燈明台(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6694 九段坂と燈明台(3)

目録番号: 244 九段坂と燈明台(1)
〔画像解説〕
神田方面から皇居内濠に沿って麹町の大地にあがる急勾配の坂。関東大震災後道路改正行事で緩くなった。明治4年に東京湾の漁船の目印にと燈明台が建てられた。遠景に望まれる丸天井の建物は駿河台のニコライ堂である。

■ 確認結果

目録番号:6694「九段坂と燈明台(3)」は、次の目録番号: 244「九段坂と燈明台(1)」と同じ写真である。〔撮影者:小川一真〕となろう。

長崎外の古写真考 目録番号:6589 東海道 栢原

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6589 東海道 栢原

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6589 東海道 栢原

■ 確認結果

目録番号:6589「東海道 栢原」は、〔撮影地域:静岡〕である。地名の「栢原」は、現在の富士市「柏原」で良いのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6495 浦カスミ

■ 確認結果

目録番号:6495「浦カスミ」のタイトルの意味がわからない。〔撮影地域:東京〕とすると、「霞ヶ関」のどこか官庁前の風景ではないだろうか。

この外、わからない漢字をカタカナ書きなどしているタイトル作品が次のとおりある。
目録番号: 222 静  岡 薩?峠と富士山
峠名は「薩埵峠」(さつたとうげ)。  https://misakimichi.com/archives/2361
目録番号:5031 横  浜 横浜ばつ町の通りと群衆
目録番号:6207 横  浜 横浜本村ガードハウス
目録番号:6534 東  京 深川神ソウ地
目録番号:6601 神奈川 相模大山ライ山

長崎外の古写真考 目録番号:6024 中国の幼児 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6024 中国の幼児 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6024 中国の幼児

目録番号:6026 京劇の女優

■ 確認結果

目録番号:6024「中国の幼児」と目録番号:6026「京劇の女優」は、整理番号の続きの作品から、〔撮影地域:中国〕と考えて良いのではないか。

長崎外の古写真考 目録番号:6001 ロシアの軍艦

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6001 ロシアの軍艦

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6001 ロシアの軍艦

■ 確認結果

目録番号:6001「ロシアの軍艦」は、写真下の英文にあるとおり、艦名は「ASKOLD」、撮影地は「FROM PORT ARTHUR」、すなわち、英語表記で「旅順港」のことと思われる。

遼東半島の中国北東部の主要な港。アヘン戦争時、イギリス海軍のアーサー中尉指揮するフリゲートが寄港したことで、ポート・アーサー(Port Arthur, Порт-Артур)の名称が欧米に知られるようになった。(ウィキペディア)

旅順港は次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2550

長崎外の古写真考 目録番号:5970 富士山(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5970 富士山(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5970 富士山(2)

目録番号:5037 河口湖からの富士山
〔画像解説〕
山梨県富士河口湖町所在の河口湖畔から富士山を望んだ写真である。写真の湖面に富士山が逆さに映るため、「逆さ富士」の光景を収める目的で撮影されたものであろう。河口湖東北端に位置する産屋ヶ崎周辺から湖面に浮かぶ帆掛け船とともに富士山方向を望み撮影されたものであろう。

■ 確認結果

目録番号:5970「富士山(2)」は、次の目録番号:5037「河口湖からの富士山」のとおり、山梨県河口湖から撮影した富士山であろう。
富士山の姿や、特に雪渓の形がまったく同じだろう。

東京都小笠原諸島の陸軍省「父島要塞第二地帯標」

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東京都小笠原諸島の陸軍省「父島要塞第二地帯標」

これも佐世保市住まい、陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと研究をされている高橋輝吉氏から寄せられた資料である。高橋氏は佐世保のみならず、全国へも出かけ、これら標石の調査をされ、数多くの標石を見つけられている。
本文は、東京都小笠原諸島の陸軍省「「父島要塞第二地帯標」の記録である。2007年(平成
19年)頃、地元に依頼し調査されたよう。以前に写真はもらっていた。高橋氏が当時、わざわざ父島まで出かけたかと思っていたが、そうではなかった。

高橋輝吉氏稿  東京都小笠原諸島の陸軍省「父島要塞第二地帯標」

東京都小笠原諸島の「父島」は、軍事本などによりますと、グアム・サイパン・硫黄島など南方方面に行く艦隊の基地でした。要塞地帯標の標石が必ず有ると思い、父島の郷土史家の方へ電話により問い合せると、「そんな標石は有りません」と初めは疑ったようでした。
「本などによりますと、父島には陸・海軍が艦持ちにて、多くの兵科が父島を要塞化しています。港の見える所などに標石は有ります…」。こちらからいろいろな資料を送り、やっと解かってもらえました。

世界遺産のことが有ったのかなー。戦いが長くなれば第二の硫黄島?になった島。1ヶ月位しますと、小笠原国立公園父島「中山峠」の写真と書類が送られてきました。先方は、何分不慣れなため、標石の近接写真がありませんでしたが、「S.M」と「昭和十六年一月十日」は読めます。
もう4年ほど前の話です、父島の方からの書類をどこにしまったたかわからず、やっと2、3日前見つけました。参考のため写真・資料を送ります。 

長崎外の古写真考 目録番号:5741 軍人家族集合写真(縁先、8人)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5741 軍人家族集合写真(縁先、8人)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5741 軍人家族集合写真(縁先、8人)

目録番号:5770 若き軍人とその妻

■ 確認結果

目録番号:5741「軍人家族集合写真(縁先、8人)」は、次の目録番号:5770「若き軍人とその妻」と同一人を、同じ時に同じ場所の縁先で撮影している。
従って、〔撮影者:明石:精文館石巻〕、〔撮影地域:明石〕であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:3006 函館港のパノラマ(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3006 函館港のパノラマ(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3006 函館港のパノラマ(4)

目録番号:3007 函館港のパノラマ(5)

目録番号:3008 函館港のパノラマ(6)

目録番号:3009 函館港のパノラマ(7)

目録番号:3010 函館港のパノラマ(8)

■ 確認結果

目録番号:3006「函館港のパノラマ(4)」などは、5枚組のパノラマ写真となっている。
長崎大学附属図書館HP「古写真仮想展示会>洋風化・近代化」による、つなぎ合わせた写真と解説は、次のとおり。現在の写真は、HP「新tackyのゆったり写真館」から。

幕末の函館の市街

慶応3年−明治5年(1867−1872年)頃の函館市街。
明治2年(1869年)までは箱館と表記された。右端に見えているのは文久3年(1863年)完成の弁天岬台場である。1854年下田での日米和親条約にもとづき、箱館は開港を約され、ペリ−の艦隊は箱館を視察した。
箱館は松前藩から幕府に上地され維新まで箱館奉行により統治された。開港後、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、オランダの各国人が在留した。

長崎の古写真考 目録番号:5517 対岸から見た長崎港パノラマ(3枚組)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5517 対岸から見た長崎港パノラマ(3枚組)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5517 対岸から見た長崎港パノラマ(3枚組)
〔画像解説〕
大波止から新地、大浦海岸通り、松ヶ枝橋、南山手、小曽根、浪の平、古河町に至る3枚綴りのパノラマ写真。中島川変流工事が終わり、新大橋、梅香崎橋、松ヶ枝橋がすでに架設されているので、明治20年(1887)代後半の撮影。1枚目は、左側に海から見た出島の全景、中央に新大橋、新地と続き、梅香崎まで。2枚目は、梅香崎から南山手ロシア領事館付近まで。居留地の中心部が写されている。3枚目は、南山手居留地中心部から南端を越え、古河町まで。南山手居留地の南端が写されている。

目録番号: 987 飽の浦からの汽船と南山手(1)
〔画像解説〕
飽の浦から長崎港と対岸の南山手を望む写真である。対岸の海岸側は浪の平町、小曽根町、松ケ 枝町である。鍋冠山の下腹にはロシア領事館等の洋館が見える。左の団平船による艦船への石炭積み込み風景は珍しい映像である。

■ 確認結果

目録番号:5517「対岸から見た長崎港パノラマ(3枚組)」の右側3枚目は、次の目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手(1)」と同じ写真であることだけ、指摘しておきたい。
パノラマ(3枚組)の1枚目と2枚目の写真は、長崎大学データベースでは見当たらない。

目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手(1)」は、次の記事を参照。横浜開港資料館所蔵写真。  https://misakimichi.com/archives/1590
撮影場所は「飽の浦」からではなく、岩瀬道町の現在、三菱重工(株)長崎造船所本館ビルが建つ「身投崎」の先端高台あたりからと思われる。
三菱構内は立ち入り禁止。現在の写真は、近くの適当な場所から撮影している。