江戸期のみさき道 (往路後半)」カテゴリーアーカイブ

みさきの観音  脇岬の観音寺

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みさきの観音  脇岬の観音寺

長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会編「歴史散歩(42)長崎県の歴史散歩」山川出版社2005年から一部修正引用

観 音 寺(37)  国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844 長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分

長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の遠見山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者が多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から長崎半島の山などを南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道部落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄航し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵比須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。 

萬延元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」(三和公民館蔵)

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萬延元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」(三和公民館蔵)

長崎医学伝習所生の関寛斎「長崎在学日記」の脇岬観音詣では、文久元年(1861)4月3日から4日にかけての紀行記事である。
佐賀藩深堀領であった長崎半島の他村の絵図は、長崎県立長崎図書館の史料にあったが、蚊焼村がわからなかったところ、三和町中央公民館(長崎市合併前の当時)展示ホールに郷土資料として展示されていることがわかった。

萬延元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」である。複写ものかA3サイズの小さな絵図である。原図がどこにあるかわからない。当時の村の様子と道がわかる貴重な絵図である。萬延元年(1860)は、ちょうど関寛斎の一行が旅した文久元年(1860)の前年に作成された地図となる。

大籠村との村境から「みさき道」をなぞると、補正した黄線のとおりとなり、岳路上の高浜村・川原村境までほとんど現在歩く「みさき道」のそのとおりの道となっている。
平山台から晴海台にかけての団地上の県道が、ほぼそのままの道を利用して作られていることが良くわかり、蚊焼茶屋と蚊焼峠の判断にもこの絵図が役立った。

黒岳の「みさき道」と同じような幟立石が、式見矢筈岳にもあった

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黒岳の「みさき道」と同じような幟立石が、式見矢筈岳にもあった

神社の鳥居の脇に、大祭や縁日に神社名など染め抜いた幟(のぼり)を立てる「幟立石」または「棹立石」という石柱をご存じであろう。これが神社にあればわかるのだが、人里遠く離れた別々の山の中に2本、目にした。

1つは、脇岬観音寺参り「みさき道」コース上にある。黒浜ダムの上の山は、我々は「黒岳」(標高243m)と呼んでいるが、文献による正式な名は「石コロバカシ」と字名もある。「みさき道」はこの山の脇を行く。20年位のヒノキの植林地で、木が石に食い込んでいる。
川原の浦里先生(三和史談会)は、「戦前、香焼の川南造船所が高い棹を立て、新造船軍艦の1マイルテストをした目印でないか」と考えられている。ここまでは納得できそうな見解だった。

ところが平成18年1月20日、長崎半島と遠く海を隔てた西彼杵半島、式見の「あぐりの丘」矢筈岳(標高336m)の山腹道で、全く同じような石柱を見つけた。佐世保高橋氏と「長崎要塞区域標」を調査していた時のこと。市式見支所が地元の人へ聞き込み、ここに何か石柱があると教えてくれた。確認のため探しに行ったら、この石柱であった。

黒岳の石柱は、25×15×50cm。刻みの字や方角は何もない。紐を通す2穴あり。矢筈岳のも全く同じで、寸法が少し大きい。
「式見郷土史」によると、この道は畝刈からの「式見往還道」。次のように記す。
”畝刈村たいら坂(畝刈よりは、くえの平という)籠立場より、むれ木溝川、むれ木峠、こふり川、はへの迫小川を経て、箱石峠まで一八町一六間(約1922米)…”
地名がどこを指すのかわからないが、石柱はちょうどこの道の中間地点くらいの場所にある。海はほとんど望めない。
浦里先生に報告すると、石柱は黒岳と同じものと考えられるが、先生自身この考え方には何の資料等根拠がなく、困っていると洩らされた。

豪華客船ダイヤモンドプリンセスの例に見られるように、最近でも三菱長崎造船所の新造船は、この海域や五島灘で試運転が行われている。速力試験は風向や潮流の影響を平準化するため、同じ海域を往復することによって、同じ出力の計測を何度も行う。
ハイテク時代、最新計器が定点を決定するはずであり、何もこんな目印が必要と考えられない。三菱重工史料館に聞いてもわからなかった。

この石柱で考えられるのは、他に地図測量・気象観測また長崎要塞区域などに関するものでないかということである。2つの石柱の地点を結べば、経度は垂直とならない。あえて探せば、標高200mくらいで同じようである。
測量史研究の京都上西氏に写真を送ったが、全国の他の地域で同じようなものが出てこない限り、何とも言えないとのことであった。
調査はここでプッツリ途絶えている。誰か知っている人がいれば教えてほしい。村境でない。牛馬をつないだ単なる石とは考えられない。

野母崎ゴルフ場内の道塚「庄五郎地蔵」  高崎市郎さん「郷土誌余聞」から

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野母崎ゴルフ場内の道塚「庄五郎地蔵」

高崎市郎さん「郷土誌余聞」その36”切り捨て御免”平成5年から。

元禄の頃ある冬の日に、みさき街道を一人の武士が西方に向って駆けて行った。余程の急使とみえ袴の裾をしぼりあげての鉢巻姿は只の使者とも思われない。街道とは秋葉神社の北側で岬村へ通じる当時の本街道みさき道である。
この使者には邪魔者は切り捨て御免の許可が出ていた。何のための急使だったのか、長崎で起きた深堀騒動に関係したものだったのか、或いは領主に何かの異変があっての急使者か?

高浜と川原の別れ道に差しかかった時、一人の老母が孫の手を引きながら、石楠の花が咲いた山道をとぼとぼ歩いていた。「ドケ、ドケ、道をあけろ」と怒鳴ってみたが、この老母は耳が遠かったのか道をあけなかった。武士はエイッとばかりに斬り捨てたのである。
そして半里程も西へ行った所の延命地蔵の湧水でその血刀を洗い、渇いた喉をうるほして目的地へと消えて行った。

切り捨てられた老母と孫はまだ息はあったので、通りかかった庄五郎が家まで送り届けたものの、その刀傷が原因で程なく死んでしまった。庄五郎は其の後地蔵を建てて人々の道安全と死者の霊を弔らったので、人々はこの地蔵を庄五郎地蔵と言った。(略)

近くに住む古老から伝え聞いた物語である。場所は川原道と高浜道との石の道標のある近くにあって、今では詣でる人もなくひっそりと草むらの中に西日が当っていた。(略)
血刀を洗った延命地蔵には現在もきれいな湧水が流れておりその昔、岬の観音参りの人々も、ここでのどをうるほしたものと思われる。

こおろぎの鳴いて 刀禍の風化墓碑   龍池