島尾敏雄文学碑記念公園 瀬戸内町押角呑之浦(加計呂麻島)
現地の島尾敏雄文学碑建立趣旨や島尾敏雄略歴の碑文は、次のとおり。加計呂麻島瀬相港から県道614号により北東に押角の呑之浦トンネル手前まで行く。トンネル開通により迂回路となった旧道の方に入ると、島尾敏雄文学碑記念公園入口がある。
建立趣旨
この地呑之浦が島尾敏雄と廻り会ったのは、昭和十九年十一月、島尾は、第十八震洋隊隊員一八三名を率い、呑之浦の入江深く、基地設営のために上陸した。島尾は、震洋特攻隊長としていつ捨てるかも知れぬ命を背負い、死への準備にいそしむ日々を生きていた。押角国民学校に勤める大平ミホに出会ったのは、そんな戦争状態の中にあっても、時として訪れる平穏な一日であった。島尾の特攻出撃とともに、二人の青春はこの地に散るはずであったが、敗戦により思いがけない生を得た。
戦後、文学史上に残した島尾の仕事は、ここでの体験を抜きにしてはけっして語ることができない。三回忌を迎えたいま、島尾敏雄の業績をたたえ、それを記念するために、ゆかりに地呑之浦に文学碑を建立する。
一九八八年十二月四日 島尾敏雄文学碑建立実行委員会
島尾敏雄について
1917年(大正6年)、横浜で出世。幼少の夏は父母の故郷・福島県相馬郡でよく過ごした。43年(昭和18年)九州大学(東洋史専攻)を繰り上げ卒業、海軍予備学生となり、翌年④艇特攻要員に任じられ、第18震洋隊指揮官として呑之浦に基地を設営、出撃(死)を待った。この状況のなか押角の大平ミホと結婚。伸三とマヤが生まれる。生涯引越しを続け旅のような人生であったが、55年(昭和30年)から75年(昭和50年)までの20年間、名瀬に住んだ。凄絶なまでの愛の高みを祈り刻んだ『死の棘』などの小説のほか、詩、随筆、対談、歴史家としての眼での文化論、ヤポネシア論など出版されたものは多い。芸術院会員。第一回戦後文学賞、芸術選奨、日本文学大賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞、野間文学賞、多くの新聞社の賞など、著名な賞は殆ど受賞。新しく切り拓かれる大きな仕事への期待は、86年(昭和61年)11月、鹿児島市での突然の死によって絶たれた。今、福島県相馬郡に眠る。