久留麻(浦川)疎水のトンネル跡  兵庫県淡路市<浦川>

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久留麻(浦川)疎水のトンネル跡  兵庫県淡路市<浦川>

旧東浦町平成12年発行「東浦町史」第2編歴史第3章近世409〜411頁は、以下のとおり。掲載図・写真も同町史から。
浦川の河内橋上流から取水、疎水トンネル入口跡が下流の長瀬橋右上側の車道崖に残ると地元で聞いたが、私が撮影してきた写真は、これかは未確認。トンネル奥は、右左に溝状が深く続いていた。疎水記念碑(移設)も新池の堤にあったそれらしきものを写してきている。

用水トンネルを造る—来馬村
浦川水系の水を来馬村の用水にという事業は、洲合池への新溝建設だけではなかった。安政3年(1856)に始まり明治5年(1872)に完成した疎水は、浦川の水を来馬村に導くために長さ1200尺(約360m)にわたって山を掘り抜いたものであった。
工事の中心となったのは森嘉四郎(疎水開墾記念碑には「企本人」とある)であり、来馬村岩屋街道沿いで綿屋・酒屋を手広く営んでいた商人である。
工事は高低を考え、現在の県道北淡東浦線の河内橋から南西約100mの所に井関を設け浦川から取水し、溝で洲合池の北まで導いた後、標高80mほどの山の尾根下を高さ約1m、長さ約300mのトンネルで標高差5mほどを北山田池まで落としたのである。その後、再び溝で七尋池の北まで導いた後、南東に張り出している山尾根の下を上茅池までトンネルを通し、下茅池を経て新池へ溜め込んでいる。
工事にかかるまでは、洲合池への取水と同じように浦村との協議が行われ、約定書が作られたであろう。その文書は見当たらないが、内容は基本的に洲合池取水時のものと変わらないと想像できる。ただ、完成後5年たって新たに付け加えたものと考えられる約定書が残る。
一、久留麻村穴抜き通水の儀、用水中タリトモ自然降雨これ有り、除水ニ相成海中へ捨り候
節は、右穴抜へ通し致すべき事          (「路谷池田主文書」前出)
とあり、用水が必要な春・夏は「穴抜き」へ通水できなかったのであろうが、雨が降って海へ流れてしまうほどの増水があったときだけ、春・夏でも「穴抜き」へ通水できるようにするというものである。この条項に続いて「穴抜き」へ通水するかどうか判断する「水守」を浦村に雇い入れることも決め、この「水守」が流水の加減を見て久留麻村へ通知するようにしている。