新小が倉と小ヶ倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年の97頁による説明は次のとおりである。
125 領境石・従是南佐嘉領(所在地:新小が倉1丁目1番25号)
126 領境石・従是南佐嘉領(所在地:小ヶ倉町1丁目62番地)
佐賀藩の領境石で、これらの石碑の南側は佐賀藩(深堀鍋島家)領であった。深堀鍋島家は、建長7年(1255)戸町浦の地頭として下向した深堀能仲を祖とし、以来、この地を領したが、江戸時代の18代純賢は、佐賀藩の家臣となり、鍋島茂宅と改名した。以来、同家は6000石を領し、佐賀藩の家老職を代々勤め、幕末・維新に至った。
(注)
125の標石は、小が倉バイパス「新戸町団地」バス停から入ったところにある。「みさき道」の道筋となり、原田パイプ工作所の角に建っている。
なお、この標石は昭和49年12月刊、中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」の巻頭頁に当時の写真があるので転載した。昭和58年刊、古賀敏朗著「くにざかいの碑ー藩境石物語」によると小ヶ倉バイパスの工事中、ショベルカーが掘り起こした新聞記事を紹介しているが、そんな乱暴な工事をしたのだろうか。小ヶ倉の年配の人は、標石の存在と位置を覚えており、位置はそんな動いてないと聞いている。
126の標石は、女神海岸通りの「白崎」バス停から小峰商店脇の坂段を登りつめた松尾満平方の石垣に埋め込まれてある。
(画像は、雨後で石垣から水が浸たっているため黒くなっている)
いずれの標石も深堀・小ヶ倉方面への藩境の道筋にあり、別稿の記事「大久保山から戸町岳に残る藩境塚」で見たとおり、長崎歴史文化博物館の史料から、建立は天明7年(1787)ころと思われる。