「関寛斎」の人物像と、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」に見る晩年
「関寛斎」は、天保元年(1830)千葉県東金市生まれ。ヤマサ醤油当主の知遇を得、長崎医学伝習所に来たのは30歳のときです。松本良順の63番目の弟子となり、オランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。後に阿波徳島藩の典医など勤め、晩年は北海道足寄郡陸別町(阿寒湖近く)に渡り、長男とともに未開の地の開拓にあたり、83歳で亡くなりました。同町の駅には開拓の祖として資料館があります。(同町のHPあり)
幕末を彩なした蘭方医学者、松本良順・伊之助こと司馬凌海・関寛斎が、司馬遼太郎の朝日新聞に連載された小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。(新潮社昭和54年などの刊行本あり)
題を『荘子』からとって「封建社会の終焉に栩栩然(ひらひら)と舞いとぶというのは化粧(けしょう)にも似た小風景といわねばならない。世の中という仕組みがつくり出すそのような妖しさは、単に昔だったからそうだということではなかろう」と最後は結ばれ、彼のことや陸別の地を訪れたときの感慨を「血の泡だつような感じのなかで深められてしまうはめになった」とも「寛斎の影がいよいよ濃くなってくるような気がした」とも表わされている。ぜひ一読をお薦めしたい本である。
「壮年者に示す」 いざ立てよ 野は花ざかり今よりは 実の結ぶべき 時は来にけり 八十二老 白里
「忍」 忍びてもなお忍ぶには祈りつつ誠をこめて更に忍ばん 八十三老 白里
「寛斎は、自分が買った土地を、開墾協力者にわけあたえてゆくという方針をとった。ただし、この方式に寛斎が固執し、息子の又一が札幌農学校仕込みの経営主義を主張して反対しつづけたために真向から対立した。協力者たちに対する公案が果たせそうになくなったために、百まで生きるといっていた寛斎が、それが理由で自らの命を絶ったともいわれている。」
「明治四十五年(1912)十月十五日、服毒して死亡、年八十三歳、翌日、遺志によって粗末な棺におさめられ、近在のひとびとにかつがれて妻お愛のそばに眠った。墓はただ土を盛った土饅頭があるのみである。
寛斎の医学書その他の遺品は、さまざまないきさつを経て、近年、陸別町に寄贈された。」
「長崎在学日記」に記された脇岬観音詣での記録は、彼の初期の紀行文となるが、あまり知られていなかった。同町教育委員会の協力により、当会がこれを江戸期の「みさき道」を解明する手がかりとし、研究レポートを刊行した。